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ジョン・ディーの魔法の旅を追って

何世紀もの間、ポーランドはまさしくキリスト教の国であると考えられています。しかしながら、長年にわたってポーランドの統治者の数人は依然として超自然的な支援を探していました。魔術(ウィッチクラフト)の力という考えは国家の存在が始まった時以来強いものでした。

司教は、西暦966年のポーランドのキリスト教化の際に、全ての異教カルトと古代の神々や自然などの力への信仰が、ウィストゥラ川の近くに住む人々の心を離れることを望みました。しかしそうはならず、ポーランドでカトリック教会の最強の影響の中でさえ、人々は魔法、異教儀式、魔術の道を進みました。

16世紀、ポーランドはヤギェウォ朝の最後の王と、ジグムント1世とその妻ボナ・スフォルツァの娘アンナ・ヤギェウォと結婚したハンガリー人、ステファン・バートリによって統治されていました。彼はステファン8世バートリとトランシルヴァニアキャサリン・テレグディの息子です。バートリは1576年にポーランド王とリトアニア大公として選出されました。ヤギェウォ朝の長い統治の後に彼がポーランドへ来た時、国はひどい状態でした。バートリは10年間王座についただけでしたが、彼の統治期間はポーランドの歴史で最も成功した時期でした。

 

王族の魔術師
ジョン・ディーは16世紀のイングランドで最もミステリアスな人々のうちの1人です。彼は天文学者、占星術師、数学者であり、女王エリザベス1世のアドバイザーでした。

エリザベス女王の前で実験を行なうジョン・ディー。油彩。Henry Gillard Glindoni作。 (Public Domain)

ディーは科学者、錬金術師、哲学者としてヨーロッパ中を旅しましたが、時には他の才能も使いました。彼の魔法の能力に興味のある多くの王族に、訪ねるよう頼まれました。多くの統治者はより強力でより裕福になる方法や戦いに勝つ方法について、魔術師から特別なアドバイスを受けることを望んでいました。ディーはコペルニクスの理論を最初に支持した人たちの1人で、彼は鏡を通じて幽霊と交信する方法をも知っていたとされています。

ディーの支援者であり彼を王宮で最も信頼できる人々の1人だと考えていた庇護者エリザベス1世の称賛で、偉大な名声は高まりました。1582年、ディーは才能ある霊媒師で錬金術師のエドワード・ケリーと出会いました。一緒に、彼らは歴史上最も魅力的なオカルト・デュオの1組を作りました。

「魔術師」エドワード・ケリー作。 (Public Domain)

天使の誤解
1583年9月17日、ジョン・ディーとエドワード・ケリー、そして彼らの親戚たちは、遠くポーランドへの旅を始めました。この旅はポーランド貴族オルブラヒト・ウァスキとの出会いの結果でした。ウァスキは錬金術師であり、ハプスブルク朝との戦争時にオスマン帝国のポーランド人支援者の1人だったヒエロニムス・ウァスキの息子でした。オルブラヒト・ウァスキはディーとケリーの才能に魅了され、ステファン・バートリに紹介したかったのです。ウァスキは芸術家や政治家としても活躍していました。

オルブラヒト・ウァスキ。 (Public Domain)

ウァスキは冒険的な生活を送り、世界中を旅し、おそらく王のために働くことを望んでいました。しかし、彼は幸運を失ってしましました。そのため、彼は社会の中で彼の地位を取り戻すためにディーをポーランドに連れていきたいと願いました。ウァスキは1583年の4月にイングランドに到着し、彼はヨーロッパで最もミステリアスな錬金術師と故郷に戻るという目的を達成しました。

ディーとケリーはポーランドへの旅が、ウァスキの約束した全ての利益をもたらすことを望んでいました。そのポーランド貴族ウァスキは彼らに、自分が非常に裕福でありポーランド王が会いたがっていると彼らに語りました。本当はポーランド王バートリは、エリザベス1世のスパイだと知られていたディーとの出会いに興味がありませんでした。それにもかかわらず、バートリは魔法に魅了され、ディーとケリーに会うことにしました。

バートリとの面会は、クラクフ近くのニェポウォミツェ城にて行なわれました。王は『天使』からの助言とお告げを求めました。天使が王に語ったことは正確にはわかっていませんが、ジョン・ディーの予言は実現せず、失望した王はこの魔術師の才能に対する信頼を失ったと言われています。

精霊を呼び出すジョン・ディーとエドワード・ケリー。 (Public Domain)

錬金術師の復讐?
ステファン・バートリ王が1586年12月12日に、未知の原因でフロドナ(現ベラルーシ)にて亡くなりました。王宮の多くの人々は、王の死がジョン・ディーの復讐かもしれないと信じました。司教と貴族は魔術師に助けを求めた王を非難し、彼らは王の死が神からの罰かもしれないと想像しました。

しかし、ディーがポーランド王を傷つけることはないでしょう。バートリはおそらく何年も悩まされた病気で亡くなりました。しかし何十年もの間、人々は王の死が悪魔やジョン・ディーがかけた呪文によるものでないのか疑問に思っていました。

王ステファン・バートリ。ヤン・マテイコ作。 (Public Domain)

クラクフ訪問後、ディーとケリーはチェコ共和国のプラハにあるルドルフ2世の王宮など、中央ヨーロッパの目的地へ旅しました。ルドルフはバートリのように錬金術に魅了されましたが、彼はディーの意見に従いたくはありませんでした。

 

別離
彼はその代わりエドワード・ケリーのヴィジョンに興味がありました。プラハにて、2人の偉大な錬金術師は最後に出会いました。ディーはケリーの名声に我慢できず、自分の名声がケリーの出世に利用されたと彼を非難しました。1589年、ディーはイングランドへと戻りました。

ジョン・ディーは1608年または1609年頃、モートレイクにて82歳で亡くなりました。王からの資金提供もなく、貧しく忘れ去られた老人として亡くなりました。今日では、ディーの墓を見つけることは困難です。墓石は何世紀にもわたって失われており、教区本は無くなりました。

一方ウァスキはバートリの代わりとなる王、ヴァーサ朝ジグムント3世という庇護者を見つけました。ケリーに関して、彼はチェコ共和国に滞在しそこで1597年に亡くなりました。

St Mary the Virgin Mortlake教会内部にあるジョン・ディー記念銘板。 (CC BY-SA 3.0)

原文:Ancient Origins

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