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ウルケシュの再発見:忘れられたフルリ人都市

古代都市ウルケシュ。聞き馴染みのない名前のこの遺跡がシリア北部から発見されています。メソポタミア地域にあるこの遺跡からは様々な遺物が発見されていて、当時の帝国に屈しない強い自治権を持っていたことがわかっています。

ある時代に単にひとつの大きな帝国が支配していたりだとか、シュメル人だけがすべてを作っていたというわけではないこともわかります。歴史というのはその次代の主役として中心で語られることのない、多くの脇役が存在しています。それがこのウルケシュ遺跡で見ることができるのでしょう。

興味深いですね★

サムネイル:紀元前約2250年にトゥプキシュ王によって建てられたウルケシュ王宮 (Archaeological Institute of America)


The Rediscovery of Urkesh: Forgotten City of the Hurrians

古代ウルケシュはかつて古代近東フルリ人文明の主要中継地であり、神話では原始神の故郷として知られています。ウルケシュとフルリ人文明については数千年砂漠の下に埋もれていた古代都市の遺構としか知られておらず、歴史のページからは失われています。しかし1980年代、考古学者が古代の宮殿・神殿・広場の遺構が隠されていた丘テル・モザン(Tell Mozan)を発見しました。10年後、研究者はテル・モザンは失われた都市ウルケシュであるというワクワクするような認識を示しました。

現在のシリア北部、イラクとトルコの国境近くに位置していた古代ウルケシュは、紀元前4,000~1,300年に栄えていたメソポタミアの街。歴史上最も早くから知られていた街の一つで、シュメル人とは全く異なる都市化モデルを示しています。

有力都市ウルケシュ

ウルケシュはかつてフルリ人の主要な政治・宗教の中心地であり、アナトリア半島やシリアの街、メソポタミアを結ぶ南北の交易ルートにおける重要地点であった。さらに地中海とイラン西部のザグロス山脈を結ぶ東西ルートにおいても重要な拠点であった。またウルケシュはすぐ北に銅鉱山がある高地を支配する王国の首都であり、これが街を豊かにしていました。

北方向から見たテル・モザン遠景(シリア北東部)、古代ウルケシュ。発掘小屋は丘の中央に見ることができる。(Wikimedia Commons)

謎に包まれたフルリ人

街を建設した人々であるフルリ人は、小さくとらえどころがありませんが、古代近東では影響力のある文明でした。テル・モザンの発見まで、学者たちはフルリ人が最初にこの地域に来たのは紀元前二千年紀だと考えていました。しかしウルケシュの発見はフルリ人がこの地に来たのは紀元前三千年紀に遡るという最初期の根拠となりました。それまでフルリ人に関する知識は古代の伝説と数少ない起源不明の遺物に限られていました。

フルリ人は後の人々の言語・文化・宗教に強い影響を与えただけでなく、近くのメソポタミア人が最初の都市を建設し始めていたときには存在していたかもしれないという強制的な根拠が発掘調査により明らかになりました。フルリ人の最も特徴的な特性は彼らの言語で、これは完全に独自で他の既知の古代や現代の言語とは無関係でした。

ウルケシュのライオンにフルリ語最初期の文章が書かれた石版が添えられている。碑文:『ウルケシュの王ティシャタル(エンダン)はネルガル神の神殿を建てた。ヌバダグ神がこの神殿を守りますように。ヌバダグが誰であれこれを破壊する者を破壊しますように。その者の祈りに神が耳を傾けませんように。ナガールの淑女、太陽神シミガ、そして嵐の神がこれを破壊する者を1万回呪いますように。』 (Wikimedia Commons).

テル・モザンの探索

テル・モザンの調査は1980年代に始まりましたが、この遺跡が失われた都市ウルケシュであると考古学者が決定的に識別できるようになるまでに10年近くかかりました。

発掘調査はフルリ人の初期文化について現在知られている大部分を明らかにしました。発掘により、遺跡は泥レンガ建築だけでなく珍しい石の構造物も明らかになりました。明らかになったこの伝説的な古代都市の遺構は、開けた広場や記念碑的なひと続きの階段、そして宗教的儀式に関連していた「冥界への道」という深い地下シャフトを明らかにしました。

ウルケシュは、大神殿などの記念碑的な公共建造物を擁していました。それは近くの山々と並び立つ密集したテラスの頂上で古代の地平線上を支配していました。現在発掘が行われている大宮殿はこの街を識別することができた書面の証拠をもたらしました。これら多くの発見は年代をアッカド時代(起源残約2350~2200年)と定めました。

テル・モザンにて発掘された階段 (Met Museum)

古代印章はウルケシュを知る窓

ウルケシュ/テル・モザンの発掘調査からは、かつては箱や瓶、籠に入れられていた大量の印章も得られました。これら印章の一部は建物や個人倉庫の扉に封をするためにも使われていました。1000以上の印章は、発見された100以上の異なる印鑑を転がして作られたものです。印章のうち約150個には印章碑文が含まれています。また、発掘された楔型文字が書かれた粘土板の多くは古アッカド時代のものでした。それらの多くは行政文書だけでなく、教科書やシュメル語辞書の一部も含まれていました。

王室の生活と伝承が描写された数百の粘土印章はこの遺跡の歴史について重要な情報明らかになりました。宮殿から発見された文書は街と王国のウルケシュという名前だけでなく、その王トゥプキシュと女王ウクニトゥムの名前も私たちに与えています。文書は有名なメソポタミアの王ナラム・シンの娘の一人がウルケシュに住んでいたと示しています。5つの印章はウルケシュ王の一人トゥプキシュに属し、8つがその女王ウクニトゥムに、そして5つ以上が彼ら一族に仕える廷臣に属しています。

ウルケシュで発見されたフルリ人の印章 (UCLA)

今のところ、他の考古学遺跡はウルケシュと同じようなフルリ人が存在していた物証を示すことは出来ていません。これにより、おそらくわずかなルリ人都市が現在のシリア北部に沿って分布していたからだと考えられます。フルリ人は古代の近東全体に非常に影響力があると判明した文明を作り出しました。

紀元前三千年紀、フルリ人は領土連続性よりも民族的同一性に基づいて、シュメル人による南部都市実験に代わるモデルを開発しました。ウルケシュの文化的独自性は地理的独自性に一部起因しています。山々を背景にして、平地の都市可能性と高地の少ない資源を開発する能力を組み合わせていました。これはその独自の宗教的・政治的伝統、そしてアッカド帝国の積極的な拡張政策から保護することに貢献しました。アッカド王ナラム・シンは自分自身を神であると考えていました。ウルケシュは彼に支配されなかった唯一の主要な紀元前三千年紀のシリア都市で、この都市が他の都市には与えられていなかった独立性を持っていたことを示しています。

テル・モザンでの発掘調査による発見された遺物は、シリアのDeir ez-Zor博物館に展示されています。しかし、より多くの宝物は遺跡の深層にまだ残されていると考えられています。悲しことに、この遺跡だけでなくシリア全体で外国人考古学者による発掘調査は2011年以来シリア内戦により無期限で停止されています。地元の小さなチームがこの貴重な遺跡を保護しており、平和になり発掘が再開できるようになるまで国内の古代遺産を彼らが守っています。

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