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デル・エル・バハリ(Deir el-Bahari)

25° 44′ 18″ N, 32° 36′ 28″ E

デル・エル・バハリ(Deir el-BahariまたはDayr al-Bahri、意味は『北の修道院(The Northern Monastery)』)は、ルクソールの対岸、ナイル川西岸に位置する葬祭殿と墓の複合体。世界遺産『古代都市テーベとその墓地遺跡』の一部。

この場所に建てられた最初のモニュメントは第11王朝のメントゥホテプ2世葬祭殿でした。これは紀元前15世紀に建設されました。

第18王朝の間に、アメンホテプ1世とハトシェプスト女王はともに増築しました。

デル・エル・バハリ


ネブへぺトレ・メントゥホテプ葬祭殿

デル・エル・バハリの図面 (Source)

中王国時代初めにエジプトを再統一した第11王朝の王・メントゥホテプ2世は、非常に珍しい葬祭複合体を建設しました。彼の葬祭殿はいくつかの段階を経てデル・エル・バハリの偉大な山ふところに建てられました。今は無き谷の神殿から続く幅16mの参道から入ることができます。

葬祭殿自体は前庭、3面が壁で閉じられたエントランスゲート、混沌の水から生じた古代の塚を表す大きな四角い建造物の上に立ったテラスからなっています。神殿が東を向いているため、この建物はおそらくラーの太陽のカルトや王の復活と関係しています。

後ろの崖頂上から見えるデル・エル・バハリの3つの神殿。左がハトシェプストの神殿の一部、中央がトトメス3世の神殿、右がメントゥホテプ2世の神殿。

前庭の東側から、バブ・エル・ホサン(Bab el-Hosan、騎士の門)と呼ばれる地下通路に繋がる開口部、そして王の座像を含む未完成の墓もしくは死者の記念碑があります。西側には、テラスに至る傾斜路の横にタマリスクプラタナスの木が植えられています。前庭とテラスの後ろ側は、ボートの行列やハンティング、王の軍事成果を表すシーンのレリーフで飾られた柱廊となっています。
ここには第12王朝の王、センウセレト3世の像も見られます。

神殿内部は実際に崖を掘って作られていて、柱廊に囲まれた中庭と多柱式ホール、そして墓に続く地下通路から構成されています。死んだ王のカルトは、多柱式ホールの背面に彫った祠を中央に配置しました。

テラスのマスタバのような建造物は西壁に沿った柱のある回廊に囲まれており、王室の妻や娘たちの祠と墓がいくつか見られます。これら王室の王女たちは、古代エジプトの主要な葬儀の神々の一柱である女神ハトホルの女司祭でした。王自身の埋葬物は少なかったですが、王室の女性たち(アシャイエトAshayet、ヘンヘネトHenhenet、カウイトKawit、ケムシトKemsit、マイエトMuyet、サデヘSadhe)の墓から6つの石棺が回収されました。それぞれは6枚の厚板で形作られており、角は留め金で繋げられレリーフが浮き彫りにされています。現在カイロ博物館にある女王カウイトの石棺は、特に状態が良いです。

埋葬シャフトとそれに続くトンネルは150m下り、埋葬室は中庭の下45mに続きます。埋葬室には、かつてネブヘペトレ・メントゥホテプの木製の棺が置かれていた祠があります。大きな並木のある中庭は行列の道によって、谷の神殿から到達します。中庭の下は、元々王の墓として意図されたと考えられている未完成の部屋に続く深いシャフトが掘られています。ファラオの包まれているイメージはハワード・カーターによってこのエリアから発見された。この神殿複合体にはファラオの妻たち娘たちのために建てられた6つの葬祭礼拝堂とシャフト墓もあります。


ハトシェプスト女王葬祭殿

デル・エル・バハリ

デル・エル・バハリ複合体の焦点は、『神聖の中の神聖(the Holy of Holies)』という意味のジェセル・ジェセル(Djeser-Djeseru)、ハトシェプスト女王葬祭殿です。王室の執事でありハトシェプストの建築家(そして一部では愛人とも考えられている)だったセネンムトによって設計と実施がなされた列柱のある建造物で、彼女の死後の礼拝とアメン神の栄光を称えるために捧げられました。

ハトシェプスト葬祭殿 (Source)

ジェセル・ジェセルは一連の列柱テラスの頂上に座し、かつては庭園に美しく飾られていた長い傾斜路によって至ります。荒々しくそびえ立つ崖の表面の一部に作られ、主に『古代エジプトの比類無きモニュメント』の一つであると考えられています。高さは30mあります。

ハトシェプスト葬祭殿の珍しい形式はデル・エル・バハリの盆地という場所の選択によって説明され、ここは急な崖に囲まれています。およそ紀元前2050年に、中王国時代の創始者であるメントゥホテプ2世が設計した傾斜のあるテラス状の葬祭殿がここにありました。ジェセル・ジェセル中央傾斜路の両側にある柱廊は、メントゥホテプの神殿にある2つの連続する段階の柱の位置と一致しています。

今日デル・エル・バハリのテラスは、セネンムトの本来の意図のわずかな印象だけを伝えています。彫像の装飾の大部分が失われています。上の柱廊の柱の正面にあるオシリス像、中庭の正面にあるスフィンクス通り、そしてハトシェプストの立像、座像、跪く像の物です。このファラオの死後の非難においてこれらは破壊されました。神殿の構造は20世紀初期の見当違いの再建の結果、かなり変更されています。

建築

デル・エル・バハリ

ハトシェプストはメントゥホテプの神殿をモデルとして使っていますが、2つの建造物は大きく異なっています。ハトシェプストはメントゥホテプのモデルの中央集中化から逸脱した(おそらく彼女の埋葬室の非集中化された位置によって引き起こされる例外)、長い列柱テラスを採用しました。

高さ30mに達する3層のテラスがあります。各々の『物語』は、礼拝堂を収容するためのプロト・ドリス様式の列柱を採用した中央テラスの北西の角を除いて、四角い支柱の二重列によって明確に表されています。

これらテラスは、かつて庭園に囲まれていた長い傾斜路によって繋げられています。ハトシェプスト葬祭殿の階層構造は、塔門、中庭、多柱式ホール、礼拝堂、至聖所に用いられている典型的なテーベ様式と一致しています。

デル・エル・バハリのハトシェプスト神殿に描かれた、彼女の第9年のプント国への遠征のエジプト兵士。 (Source)

ハトシェプスト葬祭殿内部のレリーフ彫刻は、ファラオの神々しい誕生の物語を列挙しています。文章と絵の一群は、プント国や紅海沿岸のエキゾチックな国への遠征についても伝えています。

至聖所への入口の両側には力の源としてハトホルの象徴が描かれた柱があります。ちょうど屋根の下には太陽のシンボルと両側の他の2匹の長い蛇の両方として示されるウアジェトの象徴があります。

至聖所の出入口 (Source)

神殿には右側にホルス神に供物を与える男性のファラオとして描かれたハトシェプストの象徴があり、左側にはオシリス神のシンボルである背の高い杖に動物の皮が巻きつけられている象徴があります。

彫像や装飾は盗まれたり破壊されていますが、神殿はかつてオシリスの2つの彫像、スフィンクスが並んだ長い大通り、同様に異なる姿勢のファラオ・ハトシェプストの多くの彫像(立像、座像、跪く像)のホームでした。


トトメス3世葬祭殿
トトメス3世はここに、アメン神に捧げた神殿複合体を建てました。1961年に発見され、谷の美祭の期間に使われていたと考えられています。後の第20王朝の地すべりの間の深刻な被害を受けた後に放棄されたため、この複合体について多くは知られていません。その後、建材の供給源として使われ、キリスト教時代にはコプト人の墓地となりました。


王室と非王室の墓

デル・エル・バハリ

デル・エル・バハリ

神殿の南にある崖の隠れた凹みの墓には、王家の谷から運ばれてきた40体もの王室のミイラの隠し場所があります。更なる冒涜や略奪を防ぐために、遺体は第21王朝の僧侶によってここに置かれた可能性が高いです。墓はおそらく元々は、ピネジェム2世の家族である可能性が高い、第21王朝の僧侶のために建てられました。

ヒエログリフ装飾 (Source)

隠し場所からは、アメンホテプ1世トトメス1世トトメス2世トトメス3世ラムセス1世セティ1世ラムセス2世ラムセス9世という第18・19王朝の指導者たちとともに、イアフメス1世のミイラが見つかりました。別の部屋からは、ピネジェム1世ピネジェム2世サアメンという第21王朝の高僧とファラオが見つかりました。その後、僧侶自身のミイラが埋め直された153の隠し場所もまた、この遺跡の墓から見つかりました。

セネンムトの墓(TT353)。セネンムトの指令で建てられたヒュポゲウム(小規模の地下墓地)で、長さ97.36m・深さ41.93m。 (Source)

中王国時代からプトレマイオス朝時代までのものとされる個人の墓もここで見つかっているようです。ここにはデル・エル・バハリで最も注目すべき個人の墓が2つあります。一つ目はメケトレ( Meketre (TT280) )で、ここには中王国時代からの彩色された木製埋葬モデルが多く、初めて記録された人間の頭のカノポス壺があります。

デル・エル・バハリ

二つ目は、ハトシェプスト神殿建設を監督した建築家で執事であるセネンムトの『秘密』の墓も複合体で建設されました。セネンムトの墓は古代に荒らされましたが、レリーフアートワークの一部は無傷のままです。これは非常に大きい墓だということを意味し、その廊下は92m以上もあります。しかし、完成することはなくセネンムトは埋葬されませんでした。彼にはデル・エル・バハリから遠くない場所に別の墓があり、彼の遺体はおそらくそこに安置されていましたが、そこも同じく荒らされ盗掘されました。

この周辺にある王室のものでない墓の広い範囲は、シェイク・アブド・エル・クルナ( Sheikh Abd el-Qurna )と呼ばれています。

原文:Deir el-Bahari - Wikipedia

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