トルコ、シャンルウルファのウルファ城がある丘の岩に掘られた大きな墓は王族のためのものだった可能性がある、と考古学者が発表しています。この墓はトルコ人研究者が世界最大のネクロポリスと呼んでいる地域にあります。
研究者は城に近いこの地域を発掘調査しており、今までのところ約80の墓が復元されています。ハリエット・デイリー・ニュースの発見についての記事では、人間の遺骨や遺物が墓で発見されたかどうかは語られていません。
『新しく見つかった墓のうち、1つは城がある丘の最高地点に位置しており、その他の墓よりも大きい』と、ハリエットは報じています。『これはエデッサ王アブガル一族の貴族のものであったと推定された。墓には10人用の部屋があった。また床のモザイクが墓の1つから見つかった。シリア語碑文や状態の良い彫刻もこの地域の別の墓で見ることができる。』
これらの墓は、KızılkoyunやDedeosman近隣の城に近い他の岩窟墓とともに、世界最大の埋葬地を構成している、とハリエットは報じます。これらの墓も発掘調査されています。シャンルウルファ城は現在野外博物館となっています。
シャンルウルファ城または単にウルファ城は、メソポタミア上流地域のオスロエネ王国の古代首都中枢で、長い間ローマ、小アジア、ペルシア、シリア、アルメニアなど様々な権力の影響下に入っていました。現在の境界はシリア国境に近いトルコ南東部に置かれています。シャンルウルファはかつてエデッサの名で知られていました。
オスロエネ王国の君主の数名はアブガルという名でした。ハリエットの記事は、アブガルの一族が最近発掘された墓に埋葬されていた可能性があるのか、または複数人だったのか明確に書かれていません。紀元前94年から西暦116年までの期間にアブガルという名前を持つ様々な王がいました。
アブガル王たちの中で最も著名な1人であるアブガルス(Abgarus)は紀元前53年にローマ人と条約を結び、パルティア人との戦争でクラッスス将軍を支援しました。その後アブガルスは忠誠を切り替え、戦争でパルティア人を助けるためにクラッススに誤った情報を与えて、これがローマ人の敗北に一役買う要因となりました。またアブガルスは彼の軍がローマ人と戦うと誓っていた別の紛争の真っ只中で陣営を切り替えもしました。
アブガルスはアルメニア人やアラブ人など様々に考えられています。
伝説では別の有名なアブガル王、キリスト教改宗後にイエス・キリストと文通をした‘黒’アブガルス5世について語っています。この公表された文通は教会にとって重要でありこの手紙が東西世界で何世紀も有名だったため、彼がハリエットの記事が言及したアブガル王かもしれません。
トルコのさらに古代の人々であるリュキア人もまた、壮麗な岩の墓を残しています。
歴史的記録がほとんど文書化されていないため、リュキア人は古典古代で最も謎めいた民族です。リュキア人の葬祭建築はおよそ20の主要な遺跡が現存しており、これには景観の圧倒的な一部である崖の表面に彫った素晴らしい岩窟墓が含まれています。リュキア人の最も興味深い特徴の一つは彼らの葬祭文化です。
リュキア人の墓にはいくつか種類があり、最も一般的なのは岩窟墓です。その最初期の例は紀元前5世紀に彫られていたと言われており、ミュラやアマスィヤなどの場所で見ることができます。これらの墓は通常崖の岩表面に直接彫られており、それがこの墓を目を見張る驚くべきものにしています。リュキア人は神話的な翼のある生き物が彼らを来世へ運ぶと信じており、それが墓を崖に作った理由だと言われています。
リュキア人の墓が持つ別の興味深い側面は、彼らの家庭生活の反映です。墓はしばしばリュキア人の家々のファサードのように彫られ、通常1階または2階建てですが、時には3階のものもあります。さらに、墓は通常複数の遺体が入っており、互いに関連した人々である可能性が非常に高いです。
リュキア人の別の形式の墓はサルコファガス(石棺)です。これは埋葬の一般的な形式ですが、リュキア人の石棺はその巨大さが独特です。これは3つの部分、基盤・墓室・尖った蓋から構成されています。損傷のない石棺の大部分はローマ時代のものとされています。リュキア人の貴族階級は時に彼らの奴隷や従者とともに埋められました。これらの人々は主要な墓室の下の隠された場所(hypsorion)に葬られました。リュキア人の石棺の大部分は外気にさらされた独立したモニュメントです。とは言え、墓の内部に置かれた他の石棺もあります。
岩窟墓はリュキア人やオスロエネ人独特のものではなく、同様の建造物はヨルダンのペトラやリビアのキレナイカなど地中海地方の各地で見ることができます。
原文:Ancient Origins