防護のための塔
カンバードスはポンテヴェドラ県にある小さな町です。この町はアルバリーニョと呼ばれる最高に美味しいスパニッシュ・ガリシア白ワインの生産で有名です。また、信じられないほど才能のある何人かの作家や芸術家の拠点でした。しかしこの場所は血を凍らせるほど凄惨な戦いも目撃しました。ここは町を略奪する多くの船が到着した場所でした。しかしながら、塔はこれら敵に対して強力な武器でした。サドゥルニーニョの塔は、友好的な船が安全に港へ行くのを助けた灯台でもありました。
この塔はリア・デ・アロウサに位置しており、周囲の陸地が大西洋の荒波から塔を守っています。しかしながら、塔の位置は敵に攻撃しやすくもしています。
灯台や町を海からの攻撃から守る塔は、ガリシアの都市計画において常に非常に重要なものでした。これらは建造が容易であるだけでなく、社会的尊敬のシンボルでもありました。現在でも、人々はこれらをガリシア人の偉大さと戦闘における歴史的な強さを表すモニュメントとして見ることを好みます。これら塔のうちで最も有名なものはヘラクレスの塔で、古代以来ア・コルーニャに位置しています。これは紀元前61年にガリシアに到着した、ガイウス・ユリウス・カエサルの命令によって建てられました。
伝説的な塔
サン・サドゥルニーニョの塔は西暦8世紀または9世紀に建てられましたが、より古い時代の遺跡の上に建てられた可能性もあります。この遺跡を調査した研究者らは、最初の塔はローマ人またはフェニキア人によって建てられたと示唆しています。両方の古代文明がガリシアに存在していましたが、ローマの影響がより強大でした。
数え切れない戦闘がこの塔を使って行なわれました。地元の伝承は、ヴァイキングによる多くの包囲攻撃や町を略奪する企てを説明しています。北欧部族の到来は初期中世の時代に大きな問題を生み出し、ある研究者らは、彼らの急襲から集落を防衛するためにこの塔が作られたと示唆しています。塔はカンバードスからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの他の村や町へ、差し迫った攻撃について通知する方法でもありました。この塔は、サンティアゴの防衛と安全保護にとって戦略的な場所だったカトイラから見ることができました。数世紀を通じて、北欧人や蛮族、その他多くの相手に対して使われました。
この塔は、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大司教Diego Gelmirezが所有していた12世紀に再建されました。大司教はこの塔を買う必要があったか、彼の土地を保護していた戦略的な場所を失ったのかもしれません。彼は古い塔を少し修理する必要があると判断し、現代技術で要塞化しました。それは当時の人々の目的でもありました。彼らは塔の周囲に、カンバードスでの貿易を通じて富を生み出すようにする港湾インフラシステムを作りました。
廃墟へ
15世紀、ガリシア王国は農民の反乱に直面し、1466年から1470年のイルマンディーニョの反乱における戦いの際に塔は破壊されました。ある記録ではこの塔が破壊されたのは具体的には1467年だとしています。
数年後に塔は有名なガリシア人反逆者Pedro Madrugaの兄弟によって購入されました。彼は塔を再建しました。数世紀にもわたって、塔には司教や政治支配者のような多くの重要人物たちが訪れました。
時を経て、塔は再建されて聖母マリアに捧げられたチャペルもありました。ここは滞在したり湾の壮大な景色を楽しむのに人気の場所となりました。1755年、イベリア半島の西岸全域に被害をもたらした巨大地震があり、塔は再び損傷しました。その後、誰も塔を修復しようとはしませんでした。
18世紀に塔は、現在ソウトマイヨール城として知られるビーゴに近い著名な中世の城を所有していたチャリーニョ-ソウトマイヨール(Chariño – Soutomaior)一家に属しました。サン・サドゥルニーニョ塔の遺構の所有権は19世紀の終わりまで高い評判を保持していました。その後、塔は公共物となり、現在ではカンバードスで最も特徴的なモニュメントの1つとなりました。
ガリシア人は、20世紀には塔の廃墟にチャペルの柱をいくつか見ることができたと話しています。しかしながら、建設の遺構は非常に形が悪かったため、崩壊してしましました。今日では、古い記念碑的塔の小さな部分だけがリア・デ・アロウサの側に見ることができます。
考古学調査はこの地域では全く完了していません。考古学者らはこの遺跡を探索したいと考えていますが、それを行なうための資金が不足しています。今のところ、彼らはサン・サドゥルニーニョの塔の現存する部分を少なくとも保護することに重点を置いています。
トップ画:The Torre de San Sadurniño as it stands today. Source: Touristown
原文:Ancient Origins