概要
TyanaもしくはTyanna(古代ギリシャ語:Τύανα、ヒッタイト:Tuwanuwa)は現在のトルコ、中央アナトリアのニーデ県Kemerhisarにあたる、カッパドキアのアナトリア地域の古代都市。紀元前1千年紀にはルウィ語圏の新ヒッタイト王国の首都であった。
歴史
ティアナはヒッタイトの古文書にトゥワヌワ(Tuwanuwa)として言及されている都市。紀元前2千年紀のヒッタイト帝国時代、トゥワヌワはフピスナ(Hupisna)、ランダ(Landa)、サハサラ(Sahasara)、フワッサナ(Huwassana)、クニヤワンニ(Kuniyawannni)とともに、この地域で主要な集落の一つだった。このアナトリア中央南部地域はヒッタイト資料でロウワーランドとして言及されており、その人口は主にルウィ語話者であった。ヒッタイト帝国の崩壊に伴い、トゥワヌワ/トゥワナは独立した新ヒッタイト王国の主要都市となった。初めは北のタバル王国に従属していたかどうか定かではないが、紀元前8世紀後期にはワルパラワ(Warpalawa:アッシリアの資料ではウルバラUrballa)という名の統治者が治める独立王国だったことがわかっている。Ivrizの記念碑的な岩の彫刻をはじめとしたこの地域で見つかったいくつかのヒエログリフ・ルウィ語碑文にあらわされている。ワルパラワは、Urballaの名であったり、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世の賛辞者リストの最初や、後のサルゴン2世への手紙などのアッシリアの文章でも触れられている。ワルパラワはおそらくニーデで見つかった別の記念碑に登場する彼の息子ムワハラニを跡継ぎとした。
ギリシャ・ローマ時代
ギリシャの伝説では、この街はトラキア王のトアスが建設したために初めはトアナ(Thoana)と呼ばれ、トロス山脈の麓、キリキアの門近くのカッパドキアにあった。
クセノフォンは著作アナバシスの中で、ダナの名の下に、大きく豊かな街であると言及している。周囲の平野はその後ティアニティスとして知られた。
この街は1世紀の有名な哲学者(さらには聖人、神、魔術師ともいわれる)であるティアナのアポロニウスの出身地だと言われている。古代ローマの詩人オウィディウスは著作の変身物語8巻で、バウキスとピレーモーンの物語の舞台をこの近郊とした。
ストラボンによると、この街は『トロスにおける敬虔さ(Eusebeia)』としても知られている。カラカラ帝の治世には、アントニアナ・コロニア・ティアナ(アントニヌスの植民地ティアナ)となった。パルミュラの女王ゼノビアに味方した後、272年にはアウレリアヌスに占領されたが、アポロニウスが彼の前に現れて安全を嘆願したため、兵士に略奪を許さなかったようである。
後期ローマ・ビザンティン時代
372年、皇帝ウァレンスはカッパドキア地域を2つに分割し、ティアナはカッパドキア・セクンダの首都で大都市となった。古代末期、都市はクリストポリス(Christoupolis)としても知られるようになった。
イスラム教徒の征服やビザンティン帝国とカリフ統治領間のトロス山脈に沿った開拓地設立に続いて、ティアナはキリキアの門を通るキリキアと南に約30kmになるシリア間の戦略的な配置により軍事基地として重要になった。そのため、都市は頻繁にイスラム教徒による襲撃の標的となった。708年には長い包囲の後にウマイヤ朝によって初めて略奪され、再建されるまで放棄された。その後、806年にアッバース朝カリフのハールーン・アッ=ラシードによって占領された。ハルンは都市を軍事基地に変えてモスクを建て始めたが、ビザンティン皇帝ニケフォロス1世が平和を買った後に撤去された。
831年に都市はアル・アッバス・イブン・アル・マアムーンのアッバース朝の再び占領され破壊された。アッバスはカリフであるマアムーンのビザンティン征服計画準備のためのアッバース朝軍事植民地として3年後にこの地を再建したが、833年8月にマムンが急死した後に作戦は彼の後継者ムウタスィムによって放棄され、再建途中の都市は再び破壊された。
アラブの脅威が過ぎ去るように、933年の後に都市は衰退した。ティアナの遺跡はニーデから3マイル南にある現在のKemerhisar。ここにはローマ水道や洞窟墓地、墓穴がある。
参考: Tyana - Wikipedia