• スポンサーリンク

ナブタ・プラヤと古代の天文学者

南エジプトのヌビア砂漠に、不思議なストーン・サークルが存在しています。ナブタ・プラヤと呼ばれるこの遺跡は、どうやら古代エジプト文明が興る数千年前に建てられていたようです。

どうしてそれがわかるかというと、古代文明あるある「ある時の星の位置に合わせて石が配置されている!」からのようです。

それにしても巨石でカレンダーを作るって、古代人はやっぱりすごいよなー.。゚+.(・∀・)゚+.゚

しかも8000年も前だし。

そして、どう作ったかがいつも気になります。


Nabta Playa and the Ancient Astronomers of the Nubian Desert

ナブタ・プラヤは南エジプトのアブ・シンベルからおよそ100km西のヌビア砂漠にある、数百もの先史時代の古墳、石碑、および巨石構造からなる驚くべき遺跡です。これらは約11,000年前に興った進んだ都市コミュニティの成果で、巨大な石の集合体が残されており、知られている中で世界最古の巨石による天文学的な整列だと言われています。一部の考古学者は、ナブタ・プラヤの人々は数千年後にエジプトで興る最初のナイル川都市文明の先駆者だと考えています。

ナブタ・プラヤの古代遺跡は、1974年にテキサス州サザンメソジスト大学の人類学教授フレッド・ウェンドルフ氏(Fred Wendorf)が率いる研究者グループによって初めて発見されました。それは、彼らが陶器の破片やその他の遺物が砂漠から突き出ているのに気づいた時でした。ウェンドルフは1970年代と80年代に何度もこの遺跡を訪れ、毎回新たな発見をしていました。しかしそれは、現在知られている数十の石の構造体を研究者らが発見し、偉大な巨石の役割や重要性を理解し始める数十年も前でした。

(訳注:以前紹介した南アフリカのアダムのカレンダーは75,000年前の遺跡ですが、これはどちらかというとトンデモ系みたいです。)

ナブタ・プラヤの位置は画像の中央下の赤丸で囲まれた場所。 (Wikimedia Commons)

ナブタ・プラヤにいた初期の人々

今でこそナブタ・プラヤは乾燥した容赦ない砂漠の中にありますが、常にこうだったわけではありません。科学者らは1万年前頃に夏のモンスーンの北上によって北アフリカで起きた気候変動を測定できるようになっている。この変化は、プラヤ(乾いた湖)を満たすほど充分な降雨を少なくとも年に数ヶ月はこの地域にもたらし、それによって動物と人間の両方の生命を支えました。

最初に定住した人々が、11,000~9,300年前にナブタ・プラヤにたどり着いたことを示唆する考古学的な証拠が現れました。ウェンドルフと民族言語学者クリストファー・エレットはこの時にこの地域に住んだ人々は牧歌的な遊牧民で、おそらく季節によってキャンプを張り、水が干上がったら再び移動していたと示唆しました。この時の人々は動物を集めたり陶器を作っていました。非常に少ない陶器がこの時期から発見されていますが、これらはアフリカで最古のものと考えられています。

およそ9,000年前には、集落はより大きく洗練され、人々は一列に並んだ暖炉のある小屋を作り、年間を通して水が得られるように人が入れるほどの深い井戸を掘り始めました。このように長く定住するために必要な条件を整えていきました。その時期は一帯に草原が広がり、ガゼルや野ウサギ、そして人々は狩りをしたり野草を食べることができました。8,100年前頃、ヤギや羊などの動物を家畜化していた証拠があり、組織された部隊もありました。

8,000~7,000年前に、この地域は2回の大きな干ばつに見舞われ、水位が著しく低下しました。ナブタ・プラヤは不毛の土地となって事実上生命がいなくなり、集落は放棄されました。しかし干ばつは最終的に沈静化し、1000年の空白期間の後に、人々はプラヤに戻り始めました。これ以降、この地域ではより複雑で進歩した社会が到来し、主要な巨石構造体がこの時代の間に建てられました。ここがナブタ・プラヤの人間活動の頂点だと考えられています。

ナブタ・プラヤの石造構造体

数千年の定住の間、ナブタ・プラヤの人々は、ストーン・サークル、地下墓所、巨大な石板、列になった石碑など、数々の巨石モニュメント建設しました。これらは2,500kmにかけて広がっています。世界最古の巨石モニュメントの一つであり、ストーンヘンジよりも数千年も先立っています。

カレンダー・サークル

ナブタ・プラヤで最も重要な構造体の一つにストーン・サークルがあります。少なくとも7,000年前まで遡り、ストーン・サークルは先史時代のカレンダーとして2つの重要な天文現象デザインされた最古の天文考古学的な装置の一つです。その天文現象が、夏に降る雨の徴候と関係する夏至と、砂漠を越える際の道しるべとなる夜空の星の並びです。

直径がわずか4mのストーン・サークルは、より大きな石の4つのペアとその他の小さないくつもの石で作られています。サークルの中心は3つの石が2列あります。ウェンドルフとコロラド大学教授のJ・マッキム・マルヴィルによる衛星技術を使った調査は、2つのペアになった石が南北の線を形作るように並んでおり、他の2つのペアが東西を形作っていることを明らかにしました。東西の並びは、6,500年前の夏至における日の出と日没の位置なるように計算されていました。

元NASAの物理学者であった天文物理学者のトーマス・G・ブロフィは、サークルの中にある3つの石の南側の列がオリオン座の三ッ星ベルトを表しており、別の3つの石は数千年前に空に現れたオリオン座の肩や頭を表していると示唆しました。

カレンダー・サークルに置かれた石の配置の概要 Image source: Wikipedia

そして南には、砂漠の風により頂が平らになった二つの丘に、現在ではその多くが割れた石の欠片となった大量の巨石構造体があります。北側の丘に沿って、いくつかは数トンの重さがあると思われる大きな直立した巨石が600mにもわたって建てられています。マルヴィルは、丘にある石の配置は、6,700~6,000年前のアーサ・マジョリス(おおぐま座にある、地球からおよそ46光年離れた黄色矮星)と揃っていると主張しています。

サムネイル: Nabta Playa calendar in Aswan Nubia museum. Photo credit: Rawmbetz-Wikipedia

コメント (1件)

  1. 拝読しました。日本でナブタ・プラヤを取り上げたサイトとしては、とても正確で、充実したものだと感心いたしました。ただ、とても失礼なことで、申し上げにくいのですが、詳細に拝読すると、些細な点で、幾らか不十分な叙述も散在すると思います。

    私も現在進行形で、ナブタ・プラヤの話をまとめております。ご参考までに、URLを記しました。なにとぞご笑覧ください。          草々頓首

    • コメントありがとうございます!
      現在、古代文明について海外のニュースサイトを翻訳しながら、詳細について学んでいるところでございます。紹介いただいたURLを簡単に拝見いたしましたが、出土品などナブタ・プラヤについて学ぶ上で貴重な情報を得ることが出来そうです。これから詳しく見させていただきます。

      なにぶん趣味ではじめた古代文明調査なもので、内容について情報の足りない部分があるかと思いますが、今後もご意見いただけるとありがたいです!
      よろしくお願いいたします。

  2. 児島宮文教課

    不思議なストーン・サークルはケルト(越人)が、痕跡となっています。越国の数字文字と、同じかと、前五世紀末、の越王の派遣で、ヨーロッパが、開化したかと。児島宮文教課

  3. 岩波八尋

    ここの古代人は二至二分を観測していたのでしょうか。
    エジプトの暦との関係で興味があります。
    山梨県北杜市にある縄文後期の金生遺跡では、通称茅が岳の稜線の裾で冬至を見て、金が岳のピークで立春日 冬至から45日目 を観測していたことを見つけました。
    日の出はこのような観測をして、甲斐駒ヶ岳で夕日を観測するカレンダーを備えていたものと考えています。この遺跡の立地は太陽観測の天文台であり、配石からもそのことは窺えるようです。山梨では縄文中期には二至二分を見ていた遺跡がありまして、ここ後期の金生遺跡での太陽観測は、二至二分から進んで、四立、八節の暦を持っていた証拠であると考えます。これは周の四立に先立つこと千年で、四立、八節の暦は金生遺跡からチャイナに伝わっていたものとだろうと考えています。 
    エジプトでは太陽観測をしていた経緯が見えないので、このナブタ・プラヤの知識のが使われたものと考えました。シリウスの暦と云うことでそれがそのまま使われていたものように思います。二至二分は観測されていたのでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

  • スポンサーリンク