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スールコータダー(Surkotada)

23°38’7″N 70°50’28″E

スールコータダーはインド、グジャラート州カッチ県ラパル郡に位置する考古学遺跡で、インダス文明(IVC)に属する。1.4ヘクタールの広さがある少し要塞化されたインダス文明遺跡である。

スールコータダーの遺構。 IndiaNetzone

場所と環境
スールコータダーの遺跡はグジャラート州カッチ県の町ブジの北東に位置する。小さな砂岩の丘が集まって地面が盛り上がった起伏に囲まれた古代の塚が立っている。これら砂岩の丘は赤いラテライトの表層土に覆われており、この地域全体を赤みがかった茶色に染めている。植生は乏しくサボテン、小さなアラビアゴムノキピールの木、イバラの低木からなる。これらは赤い土地に緑色の斑点を作っている。塚は1964年にインド考古調査局J. P. Joshiによって発見された。塚は西側が高く東側が低くなっており平均した高さは5~8mである。古代において、この遺跡の北東側を幅750mの川が流れていた。カッチ小湿地に流れ込むこの川は、おそらく町をこの場所に置く重要な根拠だったのだろう。現在この川は小さな細流(ナッラ)になっている。

スールコータダーで発見された馬の骨。 IndiaNetzone

馬の遺物
スールコータダー遺跡には紀元前2000年頃とされる馬の遺物があり、これはインダス文明に関する意味のある観察だと考えられる。Sándor Bökönyi (1997)はスールコータダーから見つかった骨のサンプルの検査から、少なくとも6つのサンプルがおそらく馬のものであるという見解を述べた。1974、インド考古調査局はこの遺跡の発掘調査に着手し、J.P.JoshiとA.K.Sharmaは全ての層(紀元前2100年~起源1700年頃)で馬の骨が発見されたことを報告した。

 

年表
スールコータダー遺跡居住の年表は他のハラッパー・インダス文明遺跡と同じではありません。スールコータダーの年代はハラッパー文化の遺跡の大部分より遅いが、ロータルやカーリバンガンの居住年代とよく一致する。言い換えると、ハラッパーの人々は円熟の最初期にスールコータダーに集落を設置していないが、ほとんど終わりに向かうとそうした。スールコータダー遺跡は断絶や放棄もなく400年の期間居住された。考古学者はスールコータダー遺跡における移住の歴史を3つの文化的段階に分割している。下記は建築活動の3つの段階の説明である:

IA期(紀元前2100年~紀元前1950年)
スールコータダー最初期の居住者は先立つ文化に所属していた。彼らは日干しレンガで城塞と、堅い黄色の練土の隆起したプラットフォームの上に5から8段の粗石で化粧張りした泥塊の要塞を建設した。このプラットフォームは平均高さが1.5mあり、要塞壁の平均基壇幅は7mある。使用されたレンガは成熟したハラッパー文化の標準と一致する1:2:4の比率だった。この壁の高さは4.5mであった。居住地域もまた厚さ3.5mある要塞壁で建てられた。城塞には居住地域に入るために南側と東側に一つずつ、合わせて2つの入口があった。居住地域では、排水溝や小さな基壇付きの浴室、全ての家の浸透瓶から、衛生面が整っておりハラッパー人の排水システムがわかる。

IB期(紀元前1950年~紀元前1800年)
IA期からIB期は居住の連続性があるが、この時期は新しい形式の土器や道具を使う新しい人々の到来によって明確に区別されている。彼らは城塞の建造物をそのままにしたが、要塞壁の内部に日干しレンガの補強を追加した。これは城塞内部の面積を減らしただけなので、彼らがなぜこれを行なったのか不明である。IB期の終わりは広範囲の大災害を表す灰の厚い層で示されている。

IC期(紀元前1800年~紀元前1700年)
IB期の大火の後、居住の連続性が途切れたことを遺跡は示さないが、新しい人々の集団がスールコータダーにやって来た。新しい人々は集落の配置図では先行者に続き、粗石と化粧石でできた城塞と住居複合体を同じラインに作った。これらはそれぞれ60m四方と60×55mであり次章にて述べる。

 

都市レイアウトと建築的遺構
IC期におけるスールコータダーの総建設地域は主要な方向に沿って並んだ長方形をしている。これは東西に120mで南北に約60mの広さがある。そのサイズの小ささにも関わらず、考古学者はスールコータダーが重要だと考える。これは都市計画に関してカーリバンガンやロータルと同等の建設者によるものだと扱われている。スールコータダーの門もまた注意して扱われており、いくつかの点では一般的なハラッパー文化の傾向とは異なっている。さらに、多くの学者はスールコータダーの位置が、シンドからハラッパー人が東へ移住するのを統制するために戦略的だったと感じている。またスールコータダーは文明における政権の封建制度の概念を支持してもいる。言い換えれば、スールコータダーは地域の首都もしくは駐屯地として機能していたかもしれない。

スールコータダーの平面図は2つの四角形から構成される。東にあるものは住居複合体と呼ばれ60m×55mの大きさがあり、西にあるものは城塞と呼ばれ60m×60mの大きさがある。城塞は2つのうち高い位置にある。城塞の要塞壁は平均基壇幅が3.5m~4mあり、南側の壁に10m×10mの稜堡(りょうほ)を持っている。同様の稜堡が北側の壁にもあると思われるが未だ発掘されていない。

城塞の南側の壁には中央に置かれた突き出ている玄関口がある。この玄関口は大きさが10m×23mあり、2つの守衛室を持つ主要入口に通じる階段と斜面がある。この入口に通じる幅1.7mの通路がある。城塞は大きな家屋からなり、その中にはそれぞれ最大9部屋持つものもある。城塞を形作るため東側の壁に、同じく幅1.7mの住居複合体に入るための入口がある。

住居地域は城塞のものより小さい家屋からなる。典型的な例は、5つの相互接続した部屋、3面を閉じられた中庭、通りに面した外側の基壇を持つ家である。この基壇は経済活動や商店として使われていたのだろう。住居地域の南側要塞壁もまた建設者によって異なる扱いを受けていた入口を持っている。これはまっすぐな入口でジグザグになったり曲がったものではなく他のハラッパー文化の門と違っている。門自体は要塞壁の厚い部分に設置され、2つの守衛室が突き出している。住居複合体の要塞壁は平均厚さが3.4mあり、角には城塞の要塞壁にあるものよりも小さい稜堡がある。

これら全ての特徴は、紀元前1700年に至るまで成熟したハラッパー文化の特質が年代的に非常に卓越していることを示している。成熟したハラッパー文化の原理は文明自体が衰退し始めたずっと後もスールコータダーにて守られていたが、他の大部分の遺跡は腐敗したり滅んだりした。

今日では、モヘンジョ・ダロやカーリバンガンの線から予想されるような、スールコータダーの城塞複合体近くの集落に都市の規模を示す証拠はない。城塞から約500m南東に小さな居住地の一種を表す低い塚があるが、ハラッパー文化の痕跡はわずかである。考古学者は大きな集落が存在する可能性はありそうにないが、無視することはできないと感じている。

 

その他の重要な遺物
モヘンジョ・ダロ、ハラッパー、インドのランプル同様に、マングースの存在がスールコータダーから見つかっている。これら動物は蛇に対する防衛として飼われていたことを示している。また象の骨と狼の骨(飼い慣らされていた?)もスールコータダーで見つかっている。

参考:
Surkotada - Wikipedia
IndiaNetzone

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