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ナン・マトール(Nan Madol)

6° 50′ 41″ N, 158° 20′ 6″ E

ナン・マトールはポンペイ島の東海岸に隣接した廃墟と化した遺跡で、1628年頃までサウデロール王朝の首都であった。現在では、太平洋西部のミクロネシア連邦、ポンペイ州マタラニウム(Madolenihmw)地区にある。ラグーンに造られたこの都市は、水路網で繋がった一連の小さな人工島からなっている。この遺跡の中心部とその石壁は、およそ長さ1.5km幅0.5kmの地域を囲んでおり、潮汐水路で区切られる石とサンゴで満ちた土台の人工小島が100近くある。

ナン・マトールという名前は『間にある空間』を意味しており、遺跡を十字に通る水路を指す。本来の名前はソウン・ナン-レン(Soun Nan-leng、天国のサンゴ礁)だと、Gene Ashbyの著書Pohnpei, An Island Argosyには記されている。ここはしばしば『太平洋のヴェネツィア』と呼ばれる。

ナン・マトール中央。 Public Domain

歴史
ナン・マトールはサウデロール王朝の儀式的・政治的な座であり、ポンペイ島の推定25,000の人々を1628年頃まで統一していた。ポンペイ本島とテムウェン島(※ポンペイ本島の南東海岸にある小さな島で、ナン・マトールはここに位置する。)を分離し、早ければ西暦1世紀または2世紀には人間活動の場所であった。8世紀または9世紀には小島の建設が始まっていたが、独特の巨石建築は12世紀または13世紀初期までおそらく始まっていなかった。

巨石建造物についてはほとんど確認できない。ポンペイ島の伝統は、コスラエ島のレラ遺跡複合体(同様の巨石建造物)の建造者たちがポンペイ島に移住し、そこで彼らはさらに印象的なナン・マトール遺跡複合体を建てるために自身の技術と経験を使ったと伝えている。しかしこれはありそうもないことである。放射性炭素年代測定はナン・マトールがレラ遺跡に先行することを示している。レラ遺跡のような分離した都市を建設する主要な目的の一つは、貴族階級を一般人から分離するためであった。

ポンペイ島の伝説によると、ナン・マトールは神話上のウェスタン・カタウ(Western Katau)またはKanamwaysoから来た双子の魔術師、オリシーパとオロソーパによって建てられた。農耕神ナニソーンサップ(Nahnisohn Sahpw)を崇拝できるよう祭壇を建てる場所を探すため、この兄弟は大きなカヌーで到着した。何度か出だしで失敗した後、2人の兄弟はテムウェン島の沖にうまく祭壇を建て、そこで儀式を行なった。伝説では、この兄弟は空飛ぶ龍の助けを借りて巨大な石を浮き上がらせたという。老齢でオリシーパが亡くなった時、オロソーパは最初のサウデロールとなった。オロソーパは地元の女性と結婚し、Dipwilap(偉大な)一族の支配者サウデロールを16人輩出する12世代の子供をつくった。王朝の創設者たちは誠意を持って統治したが、彼らの後継者たちは臣民へ増え続ける要求をした。彼らの治世は、同じくナン・マトールに居住していたイソケレケルの侵略で終わりを迎えたが、彼の後継者たちはこの地を放棄した。

ナン・マトール CC BY 2.0

目的と特徴
エリートセンターは貴族階級や特別な居住地や、司祭が統括する葬儀活動の場所であった。その人口はほぼ確実に1,000人を上回ることなく、その半分以下だったかもしれない。居住者の多くは首長だったが、大多数は一般人だった。統治する首長サウデロールが敵となりそうな者たちを故郷でなく都市に住むよう義務付けることで、管理・統制するための方法としてナン・マトールはある程度役立った。

ナン・マトールの北東地域にある葬儀区域のマトル・ポウェ(Madol Powe)には58の小島がある。小島の大部分はかつて司祭の住居で占められており、いくつかの小島は特別な目的を果たした。ダパフ島(Dapahu)では食料生産やカヌー建造、そしてペイネリング島(Peinering)ではココナッツオイル生産が行なわれた。墓を取り囲む高い壁はペインキテル島(Peinkitel)、カリアン島(Karian)、レメンカウ島(Lemenkou)に置かれているが、最も目を引くのは王家の葬祭小島であるナンタワス(Nandauwas)で、ここでは高さ5.5m~7.6mの壁が主な中庭の中にある中央の墓の囲いを取り囲んでいる。

推定ではナン・マトール中央を起点としてサンゴ礁を掘り進んで海に抜ける脱出トンネルがあるとされる。スキューバダイバーはこの『秘密の』ルートを探し続けているが、これまでのところ完全なトンネルは発見されていない。(※引用元不明)

ナン・マトール CC BY 2.0

食料と水
ナン・マトールには新鮮な水や食料が無い。水を集めて食料を内陸で育てる必要がある。サウデロールの統治の間、ポンペイ島民が絶対不可欠な食料と水をボートで運んでいた。サウデロールは特定の小島で食料を受け取っていた。最初はペイニオット島(Peiniot)で、その後はUsennamw島に近付いた。

1628年頃、イソケレケルがサウデロールを打倒してナンマルキ時代が始まった時に、ナンマルキはナン・マトールに住んでいたが、自分たちで水を集めて食料を育てなければならなかった。これが最終的にナン・マトールを放棄して自身の地区に戻った原因になったと考えられるが、これに関しては人口の急激な減少やこの複合体が荒廃したことのような他の説明がある。

ナン・マトール CC BY 2.0

考古学と観光
今日ナン・マトールは、テムウェン島の海岸に沿ったサンゴ礁原に建てられた石造建築やいくつかのその他人工小島、隣接するポンペイ本島の海岸線を含む18km2の地域をカバーする考古学地区を形成している。石壁が囲むおよそ長さ1.5km幅0.5kmの遺跡の中枢には、潮汐水路で区切られる石とサンゴで満ちた土台の100近い人工小島がある。

放射性炭素年代測定はナン・マトールの建設は西暦1200年頃に始まったことを示し、さらに発掘調査ではこの地域が早ければ紀元前200年には居住されていた可能性を示している。島周辺の採石場とされる場所は特定されているが、ナン・マトール建設に使われた石の正確な起源は未だ断定されていない。提案された採石場がマタラニウムにないということは、石が現在の場所に輸送されている必要があることを意味している。採石場からいかだを介して浮かべられた示唆されており、島と採石場の間にある短い潜水は落石の痕跡を示している。しかし、うまく実証したりこの過程を説明できた者はいない。何人かのポンペイ島民は黒魔術の使用によって石が島まで飛ばされたと信じている。(※引用元不明)

1985年にナン・マトールの遺跡はアメリカ合衆国国定歴史建造物と宣言された。現在、この遺跡を保全する多大な努力がなされている。

 

『失われた大陸』理論
ナン・マトールはレムリア大陸やムー大陸のような『失われた大陸』の形跡だと解釈されてきたが、これはプレートテクトニクス理論によって偽られたものだと現在では考えられている。

  • ナン・マトールはジェームズ・チャーチワードが1926年の著書The Lost Continent of Mu Motherland of Manで失われたムー大陸の一部だったとした遺跡の一つである。
  • Lost City of Stones (1978)において、作家Bill S. Ballingerはこの都市が紀元前300年頃にギリシャ人航海士によって建てられたと理論立てた。
  • 作家で出版者であるデビッド・ハッチャー・チルドレスは、ナン・マトールが失われたレムリア大陸と関連すると推測している。
  • Art BellとWhitley Strieberによる1999年の本The Coming Global Superstormは、地球温暖化が突然の壊滅的な気候的影響を生み出すかもしれないと予測し、正確な許容差と非常に重い玄武岩材料を用いたナン・マトールの建設は高度の技術的能力を必要とさせたと主張している。近代の記録や伝説においてさえこのような社会は存在しないため、この社会は劇的な手段で破壊されたに違いない。
  • エーリッヒ・フォン・デニケン(1973年)のThe Gold of the Gods第4章”Temuen, The Island They Call Nan Madol”も参照。
参考:
 ナン・マトール - Wikipedia
 Nan Madol - Wikipedia
 勝手に僻地散歩

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