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カチカル(Khachkar)

カチカルまたはアルメニアン・クロスストーンは十字架、そしてしばしば円形花飾りや交差線、植物文様のようなさらなるモチーフが彫刻された記念碑的石柱。カチカルは中世キリスト教アルメニア美術の特徴である。

2010年から、カチカルの象徴と職人技術はUNESCOの無形文化遺産リストに登録されている。

ゴシャバンクの有名なカチカル。1291年に芸術家Poghosによって彫られた。 (CC BY 2.0)

解説
最も一般的なカチカルの特徴は円形花飾りまたは太陽円盤の上に置かれた十字架である。石表面の残りの部分は通常、葉、ブドウ、ザクロ、交差線の帯などの精巧なパターンで満たされている。場合によっては聖書もしくは聖人の像を含むコーニスがある。

最も初期のカチカルは生者と死者両方の魂の救済のために立てられた。それ以外には軍事的勝利や教会の建設を、または自然災害からの保護の一形態として祝うためであった。

初期カチカルの最も一般的な場所は墓地だが、アルメニアの墓石は多くの異なる形をしており、少数のみがカチカルである。

エチミアジン大聖堂にある16世紀のJulfa型カチカル2つ。アゼルバイジャンによる破壊の前にJulfa墓地から撤去された。(Public Domain)

歴史
最初の本物のカチカルは9世紀、アラブの支配からの解放後のアルメニア人復活の時代に現れた。年代が知られている最古のカチカルは879年に彫られた(しかし、より古いより粗雑な例が存在する)。ガルニに立てられ、Ashot I Bagratuniの妻であるカトラニデ1世に捧げられた。カチカル彫刻美術の最盛期は12世紀から14世紀の間であった。この美術は14世紀末のモンゴル人侵略の間に衰退した。16世紀から17世紀にかけて復活したが、14世紀の美術性の高さは達成できなかった。現在でもその伝統は残っており、アルメニアの首都エレバンの各地でカチカル職人を見ることができる。

約40,000のカチカルが現存している。これらが記録されている献納品は通常修道院の壁に建てられているが、大部分は自立している。次の3つのカチカルは美術様式が最も上質な例だと考えられている:

  • 1213年におそらくマスターTimotとマスターMkhitarによって彫られたゲガルドのもの
  • 1273年にマスターVahramによって彫られたハフパットの聖なる救い主のカチカル
  • 1291年にマスターPoghosによって彫られたゴシャヴァンクのカチカル

多くの良い例が、エチミアジンの大聖堂の脇にあるエレバンの歴史博物館に移されている。カチカルの現存するアルメニア最大のコレクションはセヴァン湖西岸のノラトゥス・セメタリーにあり、この古い墓地で様々な時代の様々な姿をした約900ものカチカルを見ることができる。かつてアゼルバイジャンのナヒチェヴァン自治共和国に最大数あったが、全ての中世墓地は2005年にAzeri兵士によって破壊された。

ノラトゥス・セメタリーにあるたくさんのカチカル。 (CC BY-SA 3.0)

現在
カチカル彫刻の芸術は20世紀にアルメニア文化のシンボルとして再生した。世界中に何百ものカチカルがあり、その多くがアルメニア人虐殺の被害者を追悼する記念物である。ある計算によると、フランスの公共の場所にはおよそ30のカチカルがある。

エレバンのダウンタウンにある現代のカチカル彫刻家の工房。 (CC BY-SA 3.0)

危機に瀕したカチカル
歴史的アルメニアと周辺地域で造られたカチカルの大部分は、現代ではトルコ、アゼルバイジャン、一部はジョージア国とイランの所有物となっている。トルコでの組織的なカチカル撲滅の結果、現存する例はわずかになっている。残念ながらこの数少ない現存物は分類されても適切に撮影されてもいない。そのため、現在地を追跡することは難しい。ある文書化された例がJughaのアルメニア人墓地にある。

ある情報源ではカチカルがアルメニアにおいて損傷を受けたり、無視されたり、移動させられているとしている。移動させられた理由には、装飾、新しい聖地を作るため、新しい墓地のスペースを作るためなどがある。

 

形態
Amenaprkich(聖なる救世主の意味)はカチカル特有の形で、その十字架には磔にされたキリストの描写がある。このようなデザインはあまり知られておらず、大部分は13世紀後期のものである。

エチミアジン大聖堂の裏にあるカチカル。本来の場所は不明。 (Public Domain)

参考:Khachkar - Wikipedia

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