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ブト(Buto)

31° 11′ 47″ N, 30° 44′ 41″ E

ブトの景観 (CC0)

ブトブトゥス、またはブトサス、現在のテル・エル・ファライン(Tell El Fara’in、『ファラオの丘』)と、都市ディスーク近くのイブトゥ(Ibtu)またはアブトゥ(Abtu)の村は、エジプト・ナイル川デルタにあるアレクサンドリアの95km東に位置した古代都市。この都市はナイル川の支流Sebennyticの河口に近い入江、ブティック湖(Butic Lake)の南岸にある。これは現代のKem Kasirである。

ブトは元々2つの都市ペー(Pe)とデプ(Dep)であり、エジプト人がペル・ウアジェト(Per-Wadjet)と名付けた1つの都市に統合した。女神ウアジェトはその地域神で、多くの場合コブラとして表され、また下エジプトの守護神だと考えられた。この都市の名高い神殿が彼女の神託神殿であった。この都市で開催された年に一度の祝祭はウアジェトを称えた。この都市にはホルスの聖域もあり、かなり後にはイシスと関連付けられるようになった。

この都市は古代エジプト先王朝時代の重要な遺跡で、旧石器時代から紀元前3100年にかけて1万年の文化的発展が含まれる。考古学的な証拠は、上エジプトと下エジプトが統一した時にデルタにて上エジプト文化はブト文化を置き換えたことを示し、この置換はエジプトの2つの部分の1つの存在への統合したことを示す重要な証拠だと考えられている。この時ウアジェトは、白いハゲワシとして表され上エジプトの守護者として同じ地位にあったネクベトと結合し、ともに統一エジプトの守護者である2人の女性として知られた。ネクベトの像は、統一エジプトを統治したファラオの冠を取り囲むウラエウスのウアジェトと結合した。

紀元前305年から紀元前30年まで統治した王朝であるプトレマイオス王国の下に、ギリシャ人はブトという地名を作った。ここは首都としての役割を果たした、またはヘロディアヌスによると、単にナイルデルタの主要な村であった。ヘロドトスはそれをChemmite nomeと呼び、プトレマイオスはそれをPhthenothite nomeとして、大プリニウスはPtenethaとして知っていた。

ギリシャの歴史家は、この町はその一枚岩(monolithite?)の神殿と、ギリシャ人がレートーやラートーナとして識別した女神ウアジェト(ブト)の神託所として記念されていたと記録した。毎年の祝祭がこの女神に敬意を表してここで開催された。

歴史家はブトについて、ホルス(古代ギリシャ人アポローンと関連付けた)とバステト(アルテミスと関連付けた)の聖域でもあったと記している。

ギリシャ語名のブトは、MuthまたはMautのもとにほとんど結び付けられた。これは世界の母としてのイシスの称号である。

これら同じ後代の情報源によると、トガリネズミがブトでは崇拝されていた。

参考:Buto - Wikipedia

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