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シュメルとアッカド、その繁栄と衰退

現在のイラク、ティグリス川とユーフラテス川のほとりに世界で最初の文明が誕生しました。

今回紹介する記事は、「言語・文字」を軸としたお話です。

メソポタミア文明が非常に素晴らしいのは「文字」を作ったこと。当時様々な言語が使われていてもそれを表す文字がなかったために何も書き残すことが出来ませんでした。今ではこの文章のように文字で書き表すなんて普通のことですが、楔形文字で言葉を残せるということは当時かなり画期的だったことでしょうね。

日本語では「Sumer」を「シュメール」と伸ばして発音・表記している場合が多いですが、当サイトでは下記の理由から「シュメル」と表記します。

第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した。そこで我が国におけるシュメル学の先達であった中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れて、「シュメール」と表記された。この話を中原先生から三笠宮崇仁様は直接うかがったという。
:シュメル―人類最古の文明、小林登志子著、中公新書、p.viii

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また、「シュメル」のほうがアッカド語の原音に近い表記でもあるようです。


The Rise and Fall of Sumer and Akkad (Ancient Origins)

シュメル人は、7,000年前にメソポタミア地方に初めて定住した人々として知られています。シュメルは現在のイラクを流れるティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地方の最南部に位置し、文明の揺りかごとも呼ばれています。紀元前四千年紀になると、シュメル人は筆記、壮観な芸術や建築、天文学、数学などの高度な仕組みを確立させました。アッカド人はシュメル人にならって彼らの文化を借用し、新しい独自言語を生み出して世界最初の帝国を築き上げました。

シュメル人の遺跡の起源は現在でも謎に包まれています。彼らは自分たちをサギガ(Saggiga:黒い頭、または禿頭の人)と呼び、国をケンギ( Kengi:文明化した土地 )と呼んでいました。彼らはアナトリアや現在のトルコ周辺から来たと考える人もいます。その他、彼らはインドから来たとかコーカサス人(白人)を起源とするとも考えられています。少なくとも紀元前3,500年頃、彼らは現在のイラクにあたる南バビロニアに文明を立ち上げました。

古代ギリシャ語でメソポタミアとは『川の間の土地』という意味で、シュメルは都市国家の集合体または独立国家だったと言われ、3,000年間存続しました。紀元前3,500年頃、シュメル人は文明の首都ウルを含む壁に囲まれた街を建設し始めます。これら街は公共建造物、市場、作業場、そして高度な灌漑システムを持っており、周囲には村と農耕地がありました。政治的権力は初め市民のものでしたが、様々な都市国家の間で競争が増えるにつれて、それぞれの国家が王政を取り入れるようになりました。

いずれも都市国家は土着の神や女神の支配下にあり、それらの神殿が都市構造を支配していると考えていました。最も有名な神殿であるウルのジッグラトは、3階建てで高さ15mの泥レンガで作られた建造物であり、ピラミッド状に段階的になったテラスの形をしていました。これは神殿複合体を形成しており、王宮としての機能もありました。頂上にはその都市の神に捧げられた祠となっていました。

ウルのジッグラト神殿 Photos taken by Kaufingdude, 2007. (Wikimedia Commons)

シュメル人は『文明』を定義する多くの基準を開発したと知られている最初の文化でした。法典、鋤、ヨット、太陰暦を確立したと信じられています。また、現在でも秒や分を測るのに今でも使われている、数字60を元にした計算システムも開発しました。しかし、おそらく最も有名な遺産は彼らの書記体系でしょう。シュメル人は楔形文字と呼ばれる最古の書記体系の一つを考案しました。最古の楔形文字文書は、現在のイラク南東部にあたるティグリス・ユーフラテス川下流で発見され、年代は紀元前3,000年とされています。筆記者はスタイラスと呼ばれる尖った道具を湿った粘土版に押し付けることでシンボルを作っていました。

粘土版は天日で乾くと文章を保存できました。数百千もの粘土版が残されていて、シュメル人の文化や経済、法律、文学、政治、宗教についての窓口となりました。彼らの書記体系はおそらくこの地域の記述方式にその先3,000年も影響を与えたでしょう。

はじめ楔形文字書記体系が作られシュメル人だけが使っていた時、近隣の民族が自分たちのために採用するまで長くはかかりませんでした。紀元前2,500年、シュメル人の北に居住していたセム語系の人々であるアッカド人は、自分たちのの言語を書き記すために楔形文字を使い始めました。しかし、紀元前2,300年頃にはアッカド王朝が優勢で、メソポタミアの主要言語としてはシュメル語よりもアッカド語が使われていました。シュメル語は短い復活を経験しましたが、最終的には文章でのみ使われる死語になりました。アッカド語はその後2,000年話され続け、のちにバビロニア語やアッシリア語として知られる形に発展していきました。

楔形文字粘土板の一例。アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ2世(在位:紀元前890~884年)の年代記からのもので、ニヌルタに対する活動に関係している。カラット・シェルカット(古代の都市アッシュール)にて発見。ルーブル美術館に展示されている。Photo by Jastrow, 2006. (Wikimedia Commons)

シュメールは知られている中で最初の文明になったかもしれませんが、最初の帝国の一つを形作ったのはアッカド人でした。セム系の集団、彼らは紀元前三千年紀の初期にメソポタミア地方南部にやって来て、この地域の政治的支配力を獲得しました。文明はサルゴン大王によって設立され、都市国家の集合体をサルゴンの街アッカドの支配下に置きました。サルゴンはおよそ紀元前2,334~2,279年在位し、メソポタミア南部全域とシリア、アナトリアの一部を征服して、エラム(現在のイラン南部)に地域初のセム系王朝を築きました。

サルゴンは、彼の存命中の文書からではなく、ほぼ全てがメソポタミアの歴史2,000年を通して彼の評判を伝え続ける伝説によって知られています。この同時代資料の欠如していることは、彼が委託されたアッカドの首都が発見されていないという真実によって説明されています。これは彼が設立した王朝の終わりに破壊され、再び人が住むことはありませんでした。少なくともアッカドの名のもとでは。

アッカドの呪い』は、帝国の転落とエンリル神殿が略奪された後の神々に対する怒りによるアッカド没落の時代に書かれました:

都市が建設・設立されてから初めて、
大きな農地はもたらさず、
水路は魚をもたらさず、
果樹園は蜜やワインをもたらさず、
集まる雲から雨は降らずmasgurumは育たない。
その時、油1シェケルの価値はたった1クウォート半で、
穀物1シェケルの価値はたった1クウォート半だった・・・
全ての都市の市場にてこのような価格で売られた。
屋根で眠っていた男は、屋根の上で死に、
家で眠っていた男は、埋葬がなく、
飢餓から人々同士は暴れあった。

 

アッカドのサルゴン王を表した銅の頭像。サルゴン王は北部と南部両方を支配した最初のメソポタミア統治者で、シュメルとアッカドの王となりアッカド帝国を発足させた。 (Wikimedia Commons)

紀元前2,350年、サルゴンは全てのシュメル人都市国家を征服し、彼の統治の下に統一し、メソポタミアで最初の帝国を作りました。彼はシュメル軍を2回の対戦で打ち倒し、全シュメルを統一(または征服)して『キシュの王』という称号を得たシュメルの王ルガルザゲシを捕らえました。次の2世紀にわたってアッカド人はシュメルを支配しますが、その時に都市は彼らに多くの反乱を起こしました。紀元前2,100年頃、アッカドが弱体化し、没落後の世紀に傑出していた都市ウルがその地位を得て、都市国家は再び独立しました。アッカド帝国は紀元前2,200年以後のどこかで崩壊しました。

歴史家はこの没落の責任が、シュメルの大部分を征服したグティ人と呼ばれる山の部族の人々にあるとしています。その後、アッシリアとバビロンはその地域を支配するために大きくなっていきます。紀元前2,112~2,004年、シュメル語が使われなくなり始めていたにもかかわらず、都市ウルに基づいた王朝はシュメル文化を最大の高みへと復活させました。紀元前2,000年に、シュメル語はもはや使われなくなり話し言葉としてセム系アッカド人によって置き換えられました。

サルゴン王朝が続いたのは約150年ほどでしたが、中東の文明全てに影響を与えた政府モデルを作り、その後に千年続くメソポタミアの文明に永久的な印象を残しました。

サムネイル: Illustration of Mesopotamia. (Jeff Brown Graphics)

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