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ナン・マトール:神秘的な古代のサンゴ礁都市

ナン・マトールはサンゴ礁の上に建てられた唯一の古代都市です。これは狭い水路で分けられ外側の防波堤で囲まれた、人工島の上の基壇を埋め尽くす100近い石とサンゴの集まりからなっており、石の王宮、神殿、墓、居住地域などの遺跡があります。しかし都市建設事業の膨大さにも関わらず、いつ建てられたのか、膨大な岩はどこから来たのか、どうやってそこから運ばれたのか、何の目的でサンゴ礁の上に建てられたのかに関する記録は存在しません。

ミクロネシア連邦のポンペイ島にある神秘的な古代サンゴ礁都市ナン・マトールの計り知れない歴史的重要性に、世界遺産リストに登録することでUNESCOはとうとう注目しました。『創造的才能の世界的に重要な傑作』とされるナン・マトールは創造された驚異ですが、その神秘全てはいまだ明らかになっていません。

古代都市ナン・マトールはサンゴ礁の上に築かれた。 © Adam Thompson / UNESCO

この島で最初の人間活動の証拠は紀元前1世紀または2世紀に遡りますが、いつ人工小島の建設が始まったのか正確にはわかりません。理論では西暦5世紀から11世紀まで変動しますが、サウデロール王朝の首長が統治するための儀式センターとして建てられたとされています。UNESCOはこの遺跡を西暦1200年から1500年のものとしています。サウデロール王朝は、ポンペイ島の人々を統一した最初に組織された政府で、西暦1100年頃から1628年頃まで統治していました。しかし、この時代にはムウェヒン・カワ(Mwehin Kawa、建国期)とムウェヒン・アラマス(Mwehin Aramas、定住期)が先行します。

ナン・マトールという名前は『間にある空間(space between)』を意味し、これは遺跡を十字に通る水路を指します。しかし、Gene Ashbyの著書Pohnpei, An Island Argosyによると、その伝統的な名前はソウン・ナン-レン(Soun Nan-leng、天国のサンゴ礁)です。

囲いの全域は75ヘクタールあります。島々の土台は玄武岩の巨礫の上に造られ、その上に柱状の玄武岩を使って、サンゴの破片が詰まった小口と長手の模様(イギリス積み)をした壁の囲いが建てられました。壁は高さ15mで厚さは最大5mあります。それぞれの石の平均的な重さは5トンで、いくつかは50トンもあり、都市の建設に使われた柱状玄武岩の全重量は最大75万トンにもなると推定されています。

ナン・マトールの壁。 © Takuya Nagaoka / UNESCO

島周辺の採石場とされる場所は特定されていますが、ナン・マトール建設に使われた石の正確な起源は未だ断定されていません。すぐ近くに採石場がないということは、この石が現在の位置に運ばれていなければならないことを意味します。さらに驚くべきは、この建造者たちがなんとかこの仕事を完了するために、作業の助けとなる滑車やレバーまたは金属を使っていないということです。

ポンペイ島民の大部分は、ナン・マトールは双子の魔術師オリシーパとオロソーパが神話的なウェスタン・カタウ(Western Katau)から到達したことで始まったという伝説を今でも信じています。この双子はポンペイ島先住民よりもはるかに背が高いと言われていました。兄弟は農耕神ナニソーンサップ(Nahnisohn Sahpw)を崇拝できるように祭壇を建てる場所を探しました。2人の魔術師はナン・マトールに祭壇をうまく建設し、彼らは空飛ぶ龍の助けを借りて巨石を空中浮遊させる儀式を行いました。オリシーパが老齢で亡くなった時、オロソーパは最初のサウデロール(王)となりました。

歴史家と考古学者は巨石が島々までいかだによって浮かべられていたかもしれないと示唆していますが、離れた採石場から陸地と海を移動して大量の石が運ばれて岩礁複合体に建てられた正確な作業手段は未だわかっていません。

UNESCOによると、ナン・マトールは最も完璧に保存された居住、リーダーシップ、そして太平洋地域の建築的な組み合わせの儀式用の計画を示すため、『創造的才能の世界的に重要な傑作』を表します。ウェブサイト上に発表した声明には、『大建造物の大規模さ、彼らの技術的精巧さ、そして巨石構造物の集合体は複合体にこの島の当時の社会の社会的・宗教的な慣習の証拠を生み出している。』とあります。

巨石は古代都市へ運ばれた。 © Osamu Kataoka / UNESCO

専制的なサウデロール王朝
ナン・マトールはサウデロール王朝の支配階級に住まわれ、政治的・儀式的な玉座として使われました。臣民を支配する手段として、統治者サウデロールは彼らの活動がよりしっかりと観察できるよう、地元の首長に出身地を離れて都市へ転居するよう強制しました。

北東の島々、特にナン・ドワスは様々な儀式に使われましたが、護岸小島全て(60近く)は時とともに墓地として機能しました。他の小島は行政や居住に使われ、いくつかは食料生産、ココナッツオイル製造またはカヌー建造のような特別な目的に使われました。

ナン・マトールの平面図。 (Wikimedia Commons)

ナン・マトールにおいて、統治はサウデロールたった1人によって維持されました。土地、その内容物、その住民は統治者サウデロールに所有され、彼は庶民が収穫するのを監督する地主階級に土地を貸し出しました。庶民は果物や魚の貢物を頻繁に統治者へ贈る必要がありました。新鮮な水を持たず作物が育つ場所がないというこの場所の物流上の困難は、必要なもの全てを島の人々が運んだため、サウデロールにとって問題ではありませんでした。

サウデロール王朝は1000年以上にわたりこの島を統治しましたが、伝説と崩れ落ちた黒玄武岩の遺跡以外は何も残していません。絵も彫像も文字もです。残っている唯一の情報は、サウデロールがひどく信心深く、専制的で残酷だというポンペイ島民に口承で受け継がれた歴史で、その文明の残したものは現代のポンペイ島民にしばしば恐怖と迷信の目で見られます。

地元の伝承によると、サウデロールの最終的な失墜は次第に暴虐的になる法律や中央集権化していく社会システムにありました。王朝は1628年に、530km東のコスラエ島から来た半神話的な戦士イソケレケルによって転覆され、ある形や別の形で今日この島の5つの自治体に存在している近代のナンマルキ首長系統を作りました。

ナン・マトール:ミクロネシア東部の儀式センター。ナンドワス小島。 Copyright: © Osamu Kataoka / UNESCO

イソケレケルによるナン・マトールの侵略の前、中、後の正確な出来事についての情報源には大きなばらつきがあります。少なくとも戦争に関する13の異なる説明がポンペイ島民によって発表され語られてきました。伝説の大部分のバージョンにおいて、統治者サウデロールは暴虐的になっており、ポンペイ島民に崇められていた雷神を怒らせました。雷神はポンペイ島を去ってコスラエ島へ向かい、そこで人間の女性にライムを与えて妊娠させました。この結合は子宮の中で復讐の運命を知った半神的なイソケレケルを生み出しました。

イソケレケルと統治者サウデロールの戦いについて多くの説明があります。あるバージョンでは、イソケレケルの戦士たちは突然現れた隠された武器によって助けられました。戦争の流れは何度も逆転しましたがサウデロールに最後まで抵抗し、彼は軍隊とともにポンペイ本島に退却しました。戦いはサウデロールが上り坂から小川へ退却したことで終わり、彼はそこで魚に姿を変えて現在まで残っている、と伝説は語っています。イソケレケルはナンマルキの称号を得て、サウデロール王朝がしていたように、ナン・マトールで権力の座につきました。

ナンマルキの時代が始まった時、新たな統治者は最初ナン・マトールに住んでいましたが、定期的に食料や水を供給する誰かに頼ることができず、最終的に彼らの所有地に戻りナン・マトールは永遠に放棄されました。

それにしても、ナン・マトールの都市は印象的です。これを建てるために必要な作業は莫大な規模でしたが、現在のポンペイの住民は簡素な草の小屋に住んでいます。この大きな違いは何を意味しているのでしょうか? さらに重要なことは、どのように最初の場所に都市が建てられたのかということです。ナン・マトールに記録が存在しないという事実は、この独特なサンゴ礁都市の壁に埋められた秘密を、私たちには知ることができないことを意味しています。

原文:Ancient Origins

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