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古代近東における錫

青銅器時代において錫って重要なんじゃないかと思ってます。Robert Maddin、Tamara Stech Wheeler、James D. Muhlyによる1977年のペンシルベニア大学考古学人類学博物館の資料がありましたので翻訳してみました。40年前のものなのでちょっと古い情報かもしれません。資料用の翻訳なので画像は載せてません。翻訳元の「View PDF」で確認してください。用語には適宜Wikipediaにリンクを張っています。
翻訳元:https://www.penn.museum/sites/expedition/tin-in-the-ancient-near-east/


古代近東における錫
古い疑問と新たな発見

銅と錫の合金である青銅は、その名前を古代の時代の一つに付けている。純銅とその他銅合金も近東や地中海東部の青銅器時代(およそ3000年~1200年BC)に使われたことは今では明らかなため、その名称が厳密に正しいと見なすことはできないが、青銅製品が大多数を占めるのでラベルとしていまだ適切である。青銅器時代という単語が暗示する年代的区別を超えて古代に使われた素材の重要性があり、これら素材がこの150年間の考古学者による古代のライフスタイルの再構築において重要視されている。工芸品や廃棄物の形における素材は古代人の活動や思考に関する具体的な証拠であり、過去を取り戻そうとするために使われるだろう。私たちは素材をそれらが生み出された社会的・文化的システム再構築の目的とともに、古代の技術と技術者がどのように貢献し、それらシステムに影響を受けたか研究する。

金属は陶器と異なり必要な原材料が限られているため、他の地域社会のニーズに応じて輸送する必要がある。

金属加工技術は陶器生産よりも複雑であり、鉱石の抽出から物品製造まで多くの人々が冶金的努力の様々な段階に関わっている。したがって金属物品は、地方レベルでの文化変化の指標として感度は低いが、長距離貿易のパターンとアイデアの伝達の性質を定義する上で、陶器よりも生産的である。

青銅を構成する二つの金属は長年にわたって学者にとって興味深いものだった。古代の金属加工師が利用できる銅と錫の供給源は多くの推論の対象であり、現在ではキプロス、トルコ、パレスチナ、イランの銅鉱床がすべて青銅器時代の冶金において重要な要素であることに多かれ少なかれ同意されている。錫は南西アジアや地中海東部に地質学的に確認された鉱床がほとんどないため、より難しいことが判明している。古代の青銅加工師が使用していた錫の起源は正確に特定できないため、古代近東の謎の金属となっている。錫供給源の特定と問題の性質の理解を助けとなるべきいくつかの系統の調査がある:地質学および冶金学、文献的証拠および考古学的発見である。

地質冶金学

世界の錫鉱床の大部分は熱水鉱脈であり、花崗岩または花崗岩族(the granite family of rocks)と併せて見つかる。硬岩錫(hard rock tin)として知られる、花崗岩を貫く錫鉱脈は古代の鉱夫には得がたいものだった。古代では、錫石またはキャシテライト(SnO2)が使用された。これは風化によって錫鉱床の表面に形成される酸化物であり、これはナゲットの形で下流に押し流され、その重量のために最終的に川底に堆積する(詳細は Charles 1975 参照)。古代の鉱夫の活動に関する最も良い例えは、カリフォルニア・フォーティナイナーズと彼らの砂金探究である。砂金のように、錫は取り出すことができてその中身の痕跡を残さない。この状況はたしかに古代の錫供給源に関する現代の調査を複雑にするが、母岩の花崗岩構造が残っており本来の錫鉱床が特定できる可能性があるという事実において希望がある。

世界の主要な錫供給源 –マラヤ、インドネシア、タイ、中国、シベリア、コンゴ地域、ボリビア- は地中海地域から遠く離れており、BC3000年のすぐ後に近東で錫の青銅が作られた後になるまで、1つを除いてすべてが利用されていたことは知られていない。除外したのは最近発掘調査されているタイで、ノン・ノク・タバーンチエン遺跡はBC四千年紀中期以前に遡る可能性のある繁栄する青銅加工の伝統を示している。最初期に分析されたバーンチエンから見つかったダガーは、BC3600年頃のものとされ2.5%の錫(原子吸光分析によって決定)を含み、この数字は意図的な合金であることを示す。BC3000年までに、タイの古代金属加工師は約10%の錫を含有する良好な青銅を生産し、鋳造、冷間加工焼なましをうまく取り扱っていた。タイにおける初期の青銅生産は最終的に、近東の合金化技術の開発と何らかの関連があることが判明するかもしれない。タイでの発掘調査では金属錫の工芸品はいまだ見つかっていない。

もし多くの小規模供給源があれば、大規模な錫供給源はもちろん必要ではない。より小さな錫鉱床がタイよりも近東のかなり近くで見つかっており考慮に値する。ここで繰り返すべきことだが、数々の近東の錫供給源が文献で言及されているにもかかわらず、トローアド、アナトリア、イランでの調査は錫鉱床を明らかにできていない(Muhly and Wertime 1973; Muhly 1976: 97-102)。最近の地質学的研究は、エジプトはアスワン北東の東部砂漠にかなりの錫埋蔵量があることを示している (Muhly 1976: 102-104)。ヒエログリフの岩刻碑文は古王国時代にこの地域にエジプト人がいたことの証拠となるが、BC三千年紀にこの地域から錫が掘り出されたかどうかはいまだわかっていない。エジプト人は洗練された冶金学にも関わらずBC二千年紀まで銅と錫を合金にしなかった。そのため青銅器時代を生み出す東部砂漠の錫の利用はBC2000年の後まで行なわれなかった可能性が最も高い。Muhly、George Rapp、Theodore Wertimeからなる調査隊がこの地域の錫鉱床を1976年に調査した;執筆時点ではこの作業の結果はまだ利用可能になっていない。

地中海の沿岸部、トスカーナイベリア半島は錫供給源の可能性があると見なされた (Muhly 1973: 253-256) が、これら鉱床が青銅器時代に採掘されていたという証拠はない。ボヘミアは利用可能な錫供給源としてしばしば言及されるが、鉱床は花崗岩の鉱脈内にあったため青銅器時代の鉱夫には利用できなかった (Muhly 1976: 99-100)。錫はまたコーンウォールにも存在するがこれも青銅器時代に採掘されたかどうかはわかっていない。とにかく、北部と西部の錫鉱床は、錫が東から来たとしている近東の文献と食い違っている(下記参照)

酸化物であるキャシテライトから木炭を使って錫を溶錬(※smelting)させることは、融点が低い(232℃)ためかなり容易である。溶錬した錫はその後青銅を作るため溶錬した銅に添加される。別の方法として、銅鉱石とキャシテライト鉱石を溶錬前に混ぜ合わせて一緒に溶錬させた。この方法は可変の錫含有量を持つ合金を生産できた可能性があったが、キャシテライトはほとんどの場合約80%の錫を含む高密度鉱石である。結合溶錬(joint smelting)はいくつかの近東文献に記述されている6:1または7:1の銅:錫の割合を反映する錫含有量をもつ青銅器がほとんどない理由を説明するかもしれない。大規模な銅と錫の共同溶錬(co-smelting)は銅供給源に錫鉱石を出荷する必要があったためありそうにない。溶融した銅への直接のキャセライト添加は、良好なブロンズを生成しなかった。なぜなら、溶融した銅中の任意の量のキャシテライトが錫含有量を約1%しかもたらさないからである。

銅の合金元素としての錫は、古代に同じく添加されていた金属であるヒ素や亜鉛よりも優れている。3つの合金元素は全て銅をより柔らかくするため鋳造しやすくなるが、約10%の錫はヒ素や亜鉛の添加よりも銅をより硬く強くする。錫はさらに亜鉛やヒ素よりも高い腐食耐性を与え、10%で銅の融点を1083℃から約1020℃へ低下させる;5%のヒ素は融点を約25℃低下させ、10%の亜鉛添加で融点を約30℃低下させる。錫が特徴的な青銅色を生み出す一方、ヒ素-銅合金は純銅よりも暗色でより滑らかであり、亜鉛は銅をより金色にする。錫はそれを得るために費やされた努力のために優れた合金元素とみなされていたに違いない。

様々な錫の特性はその保存と識別の理解という観点から考古学者にとって興味深いものである。『スズペスト』はいくつかの地域で認識可能な金属錫の工芸品がないことを説明するかもしれない。スズペストは錫がある形態から別の形態に変化する同素変態で、すなわち白色の固体から灰色の粉末に変わることを言い、これは研究室環境では約13.2℃で発生する。実際には、はるかに低い温度がおそらく必要である;最大速度には-40℃で達する。変化が始まっているときでさえ、変質速度は遅い。『スズペスト』は感染する。ペストの進行に必要な特別な状況は、限られた数の領域においてのみの保存における要素であることを示す。スズペストが記録された有名な発生はそれが発展する条件を説明している。ナポレオンの軍隊が1812年の酷寒の冬にモスクワから撤退したとき、フランス軍服の錫ボタンが崩れ始め、軍隊の横腹がそれまでよりもさらに露出したままになった。

『スズ鳴き』は現場で錫を識別する手段を提供する。もし金属の小さな薄片が錫の工芸品から取り除かれ曲げられると、可聴音が出る。音は他の原子層上の原子層のせん断運動で生じ、スズ内部で非常に高速で起こる。亜鉛は『鳴く』他の唯一の金属だが、知る限り青銅器時代には金属の形態で使われていなかった。液体金属がかなりの量の水素を含む場合、それが凝固化の後期段階で気体として放出され、鋳造青銅の表面に『スズ汗』が形作られる。この気体は、銅-錫混合物の最後の部分である錫に富む液体を表面に凍結させて、銀色のコーティングを形成する。

文献的証拠

シュメール語でアンナ(An.Na)とアッカド語でアナク/アンナク(anaku/annaku)は錫を意味し、現在ではほとんどの学者によって認められている(異なる視点はEaton and McKerrell 1976: 179-182 and Kashkai 1976を参照)。錫と青銅についての最初期の言及はファラ(※テル・ファラか)で見つかったシュメール語テキストからのもので、これはBC三千年紀中期のものとされている。分析作業は、錫の青銅がメソポタミアで同時期に作られていたことを証明することで、テキストによる証拠を裏付けている(Moorey and Schweizer 1972: 180-185)。錫貿易の復元に関する主要な文献的証拠は、二千年紀初期のキュルテペやカネシュ、マリの粘土板に由来する。アッシュールからの商人はかなりの量の錫を中央アナトリアにもたらしており、少なくともその時代には後者の地域は独自の錫の供給源を持っていなかったことを意味している。しかしこのテキストは錫がアシュールにどのように到達したか、そしてそれがどこから来たのかを伝えてはくれない。この錫は、イラン北西部からのものであると一般的に推測されているが、これは明示されていないがその地域に錫の地質学的証拠はない。

キュルテペの古アッシリア語のテキストの約100年後、マリからの錫の旅程表は分布点(distribution points)のリストを追加するが、供給源についてはより多くは語らない。錫はマリからアレッポカトナエブラライシュ(ダン)、ハツォルに出荷され、最終的にウガリットの『Kaptorite』に出荷された。この錫貿易におけるこの人物 – Kaptoriteはクレタ人を意味する – の関与は、貴金属の流通の広がりを示唆している。この時期のメソポタミア南部のラルサシッパルは錫貿易において、錫を北へ出荷するための拠点として重要な役割を担っていた。メソポタミア南部を越えて錫のルートが曖昧になり、錫が出荷された場所としてイランとペルシャ湾の可能性が残された。ラガシュのグデア(BC22世紀)はメルッハの土地由来の錫を使ったと具体的に述べている。残念ながらメルッハの位置は正確には分かっていないが、一般的にインダス文明を示すと考えられている。

古代の筆記者は、彼らが大量に使用した錫の供給源について奇妙なことに無関心だ。中アッシリア時代(Middle Assyrian period)において錫は罰金や貸付の利子を支払うために使われた。新アッシリアの王たちは、捧げ物として莫大な量の錫を受け取った。数回の中断をはさみながら、三千年紀から続くメソポタミアに供給された錫のよく整備された貿易、そしてメソポタミアが西へ錫を出荷していたことは明らかで、同じものが最終的には遠くクレタ島まで到達していたかもしれない。

ミケーネ文明の興隆は錫の代替供給源の開発に付随して起こっていたか、促進されていたかもしれない。錫青銅と琥珀はギリシャの竪穴式墳墓(Shaft Graves、BC1600年頃)で最初に現れ、これは莫大な富と組織的な政治的運営を示唆する物品複合体の一部である。今ではヨーロッパ北部とブリテン諸島の間の琥珀と錫の貿易の良い証拠と、この貿易パターンがヨーロッパの川の流域を下って地中海とアドリア海に広がったいくつかの証拠がある。ミケーネ人自身はヨーロッパ北部やブリテン諸島に行ってはいなかったが、貿易ルートの南端をおそらく海で支配することによって裕福になった。この復元を支持するミケーネ・ギリシャからの文献的証拠はないが、金属加工師と金属の量についてのみ書かれている線文字Bの粘土板は金属に言及しているため驚くことではない。

ミケーネの証拠は文献的ではないが、近東の材料の近くにあると認識するのに重要である。BC1600年以降、錫は地中海東部地域に二つの方向から入ってきた可能性がある。ギリシャから出荷された錫は近東の識者にはおそらく重要な要素ではなかったのだろう。そのため貿易と起源の詳細はわからないままである。ミケーネ人によって販売された錫に関する主な疑問はキプロスに関係している:後期青銅器時代後半におけるキプロスでの集中的な銅加工活動は、ミケーネ人によって統制されていた錫の供給と何らかの形で関連していたのか、または考古学的記録のばらつきの根拠のみで説明できるのだろうか?

考古学的発見

金属錫の工芸品は希少であるにもかかわらず、その金属はメソポタミア・中央アナトリア・トローアド・キクラデス諸島の金属加工師に、これらの地域で初めて青銅が作られたBC三千年紀中頃には知られていた。錫がメソポタミアに東から来たと書かれたもっと後のテキストを考慮すると早期の青銅が驚くことではない場所である、イラン南西部のTepe Yahyaで錫青銅は数百年早い可能性がある。

BC1200年に先行する金属錫の三つの品物は考古学的記録に表れる。最も初期の物はThermi IVから見つかった、1つの細長い錫が2つ目の周囲に巻きついたブレスレットである(W. Lamb 1936: Fig. 50; pl. XXV, 30-24)。C. H. Deschはその錫が銅や銀・鉛を含まないことを見つけ、おそらく付着した土に由来することを検知した鉄の痕跡を感じた(Ibid.: 215)。エジプトから見つかった錫の品物2つの年代は第18王朝後期(BC14世紀)とされている。一つはヒンジ付きのフタがある巡礼フラスコで、現在はアシュモレアン博物館に所蔵されており(Ayrton et al. 1904: 50; pl. xvii, 20)、二つ目はGurobから見つかった断片からなる錫の指輪である(Petrie 1904: 19; pl. XXII, 10)。前者は『純粋な錫』からできているとして引用され、後者はDr. Gladstoneによって分析された。金属錫の出土品の希少性は、古代の青銅加工師が熔錬された錫を使っておらずむしろキャシテライト鉱石を使っていた、と過去に示唆されている。トルコのGelidonya岬沖合の沈没船から見つかった8kgの白い素材と歯磨き粉の一致はこの仮説の再考を余儀なくされたかもしれず、その保全はそこまで貧弱ではなく分析はより決定的である(Dykstra in Bass 1967: 171-172)。湿式化学分析により、この物質は炭酸カルシウム71%、少量の不純物、および約14%のスズを含むことが判明した。Dykstraは、海水の作用によってスズが炭酸カルシウムで置き換えられたが、この化学交換は起こりそうにないと示唆している。この発見を解釈することの第2の難点は、錫のインゴットの色である。錫酸化物は通常黒っぽく、Gelidonyaの素材は明らかに白色であるが、浸水が何らかの形で錫の特徴的な酸化物の色に影響を及ぼした可能性がある。Gelidonyaの『錫』は、その同定についての明確な結論に達する前に再解析されるべきである。

知られている金属スズの物体の数は、BC1000年の後には増加しない。興味深いものは、AD20年から50年の間に地中海のフランス・ポール=ヴァンドルhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ポール=ヴァンドル沖合に沈んだ船の貨物である (Coils et al. 1975)。興味深い有窓タイプの錫インゴット14個(例は図22)が残骸の全体に散らばっていた。そのインゴットは3kg強からほぼ9kgまで様々な重さだった。そのうちのインゴット12個のX線回折および原子吸光分析は、それらが銅や鉛をほんのわずかだけ含む純粋な錫であることを示した。私たちは長年それらの青銅器時代のカウンターパートを探していたので、これらのインゴットは特に興味深いものである;錫インゴットの考古学的発見の希少性は、抽出と貿易がかなりよく文書化されているローマ時代でさえ非常に注目に値する。

新たな発見と新たな見地

錫の産出が希少であることは遠距離を輸送しなければいけないことを意味する。鉱石は溶錬した金属よりもかさばるため、鉱石として出荷された可能性は低い。したがって、錫インゴットのような何らかの形式が青銅器時代に使われたと予測された。実際、錫や鉛だと識別された青色や白色のインゴットが、銅酸化物インゴットの表現としてエジプトの墓絵に現れている。錫インゴット仮説は2つのインゴットの発見によって確認されており (図23) 、それは現在はイスラエル・ハイファの古代芸術美術館(Museum of Ancient Art of the Municipality of Haifa)に所蔵されている。博物館のディレクターDr. Yosef Elgavishには、研究およびインゴットから試料を採取する許可をくれた親切にとても感謝している。

このインゴットはほぼ長方形であり台形断面を持つ。長さは31.4cmと32.4cm、幅19.0cmと21.6cm、厚さ3.7cmと3.6cmで、重さは11.4kgと11.9kgである。それぞれのインゴットは表面に、他の場所よりもキプロスで人気のある刻印でありおそらく島に元からあった、キプロ・ミノア型の刻印が二つ彫り込まれている。インゴットはハイファに近い岸の沖合でダイバーによって見つけられ、報道によるとこれは大量の錫インゴットの一部であるとのこと。インゴットが来た場所やこれらと関連している可能性のある材料について詳しい情報を得るため、ハイファで更なる調査が行なわれている。

金属組織分析や元素分析のため、それぞれのインゴットから三角形のくさびが後部左上隅から弓ノコで取り除かれた。このくさびはそれぞれ厚さ約1.0cmで、長さは6.6cmと4.5cmである。各サンプルの内部から穿孔して得られたものは、どの元素が存在しているか決定するための発光分光法による元素分析用に、および原子吸光分光法によってより正確な定量的決定のために送られた(表 1)。この二つのインゴットが実質的に同じ組成をしているのは明らかである。説明されなければならない、分析におけるいくつかの異常な点がある。マグネシウムは木炭熔錬プロセスにおいて還元されないため、そのマグネシウム含有量は海に由来することのみ説明できる。マグネシウムは海水の二番目に大きい金属成分であるため、おそらくマグネシウム塩の形で存在する。くさびの内側部分から得られた他のサンプルは中性子放射化分析のために送られており、これは内部腐食に見えるにも関わらず(下記参照)、組成のより正確な決定が可能になるはずである。

文献中には、錫供給源および錫製品の微量元素分析はほとんど記載されていない。コバルトとゲルマニウムの微量痕跡はコーンウォール鉱石の特徴を特定している(Tylecote 1962: 63)が、ハイファのインゴットはコバルトのみを含んでいるためおそらくこれはコーンウォール起源ではない。上記で論じた2つのエジプトの錫製品とThermiから見つかったブレスレットは「純粋な錫」であると判断されたが、分析の詳細は公表されていない。エジプトの品物を再び分析することは可能かもしれないが、Thermiのブレスレットはそれを見つけるのに多大な努力を払っても消えてしまったようだ。ローマの錫インゴットは銅と鉛の原子吸光によって分析され(G. Perinet in Coils et al. 1975: 94)、これら2つの元素の各種量が示された。これらインゴット1つだけ(no. 10)が276ppmの銅を含み、180ppmであるハイファからのものに匹敵する。古くから知られている金属スズの物体について比較判定を行うには、中性子の活性化による元素分析のより協調したプログラムが必要である。

純粋なスズの場合、スズは軟らかい金属であり、その構造は微視的研究のために研磨する際に変化する可能性があるため、元素分析は金属学的研究よりも有益である。各インゴットから採取したくさびの一部を、標準的な金属学的手順に従って研磨し、1つを硝酸、3つを酢酸、そして5つをグリセロールの溶液でエッチングした。光学顕微鏡による検査(図24)では、粒径が大きいことがわかり、インゴットがゆっくりと冷却されたことを示している。スズの黒い部分はおそらく腐食の始まりであり、大きな粒子内で目に見える小さな粒子は研磨の産物である。錫に不溶性の不純物が含まれていることを示す第2相の粒子は目に見えないが、研磨によって第2相の材料が不明瞭になっている可能性も考慮する必要がある。第2相の存在は異常な溶錬状況を示し、錫は純粋なキャセライト鉱石から精錬されていたに違いないためこれは起こりそうにない。

ハイファの錫インゴットは制御された考古学的な文脈から来ていないので、それらに彫られた記号は、その年代の唯一の手がかりである。3つの記号のうち2つ(1つの記号は両方のインゴットで見られる)キプロ・ミノア型音節文字と同一とみなせる(Masson 1974: 15: signs 95 and 102)。3番目の共通の記号はインゴットに現れる正確な形では知られていないが、確かに同じ語族のメンバーのように見える。キプロ・ミノア刻印はBC16世紀からBC11世紀の終わりまで使われたため、このインゴットはこの時期のものでなければならない。Emilia Massonは彼らの古文書学がより近い年代決定ができるかどうか決定するためこの記号を研究している。

ハイファの錫インゴットに刻まれたキプロ・ミノア刻印は、金属加工と後期青銅器時代の金属取引について重要な意味を持つ。第一に、金属錫は、少なくともいくつかのケースで、鉱石や錫の割合が高い母合金よりも金属製品に使われていることが今では明らかである。第二に、青銅の作成に必要な両方の金属はキプロスを中心とした行政複合体に分配された可能性がある。錫の供給源は不明であるが、それはキプロスを通過してそこで後期青銅器時代のいくつかの銅インゴットにもみられる刻印を受けた。それらは一緒に使われることになっていたので、銅と錫が一緒に出荷されたことは論理的である。錫がキプロス島に到着した時にはすでにインゴットだったのか、もしくは持ち込まれた鉱石が島で熔錬されたのか私たちはわからない。前者はより可能性がありそうだが、刻印は鋳造された後にインゴットへ刻まれたため、問題を明確にしない。酸化したインゴットにある刻印はいくつかの場合は鋳造の一部であるが、続く彫刻は他のものにある。

キプロ・ミノア型文字はまたウガリットでも広く使用されており、したがってこれはハイファ・インゴットの即時積み替え地点の代替可能性である。銅がそこから来ていなければならないため、キプロスを起源の港として見ることは好ましく、金属流通の効果的メカニズムの存在を意味する。行政組織はキプロスにあったが、それは行政官を特定する助けにはならない。キプロスの場所とその国際的な商業の中心地としての役割は、東西両方からの錫を受け取っていたことを意味する。

ハイファのインゴットは船の積荷の一部に違いない。インゴットはキプロスまたは可能性は低いがウガリットで積み込まれ、レバント地方の海岸へと輸出された。おそらくパレスチナ南部のアシュドッドやエジプトの港を目的地として。インゴットを運んでいた船は、現在では古代船の墓場として知られるハイファ近くの地域でその航海を終えた。

エジプトへの積荷はその海岸を通過しており後期青銅器時代にはキプロスとの関係が近かったため、Tell Beit Mirsimから奉納されたものを除く酸化インゴットがパレスチナからは不明なことは常にいくらか興味深い。その土地は自前の銅供給源を持っていたため、おそらくキプロス産銅の古代貿易に参加しなかった。しかしパレスチナに錫はなく、純銅やヒ素銅に対する錫青銅の優位性が学ばれた後、どこかから錫を得ることが必要になった。ハイファのインゴットは、パレスチナの天然資源の隙間がキプロスの仲介によって満たされていたことを示す可能性がある。


古代の謎金属ってワクワクする響き。錫については別のページで考えをまとめようと思います。錫には錫ペストと呼ばれる性質があるため発見が困難なのだそうです。動画あったので貼っておきます。

スズペスト

スズ鳴き

古代人の金属加工技術って興味深いですよね。金属を偶然発見(個人の感想です)してから別の金属と混ぜることを考えたり、混ぜ合わせる割合を研究して最適なものを見つけ出したりと、かなり知的な活動をしていたことがわかります。このような所に、人間が錬金術に捧げた情熱と同じものを見て取れる気がします。

石器時代に道具を生み出した後、食用植物や毒の研究をし、青銅器時代には金属の発見と貿易による物品と知識の共有が行なわれました。そして鉄器時代には金属加工技術がさらに発展して戦争に使われるようになったと。やっぱり古代ってワクワクしますよね。

サムネイル:wikimedia

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