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15世紀のチャペルから『魔女の牢獄』が見つかる

1868年に描かれた、聖マリアチャペルにあった魔女牢獄。後に宗教的目的で復元される。 Credit: Open Space Trust/Mither Kirk Project

スコットランドの都市アバディーンにある15世紀のチャペルの石柱に、似つかわしくない鉄のリングが備えられていますが、歴史家はこれがこの街の過去における汚点に直接繋げられるものだと語ります。それは23人の女性と1人の男性が魔法(ウィッチクラフト)の件で告発された1597年に行なわれたアバディーンの『大魔女狩り(Great Witch Hunt)』における裁判と処刑のことです。

『正直に言うと、私は懐疑的です。注目に値するのはこのリングが全てではないですが、実際に全くの本物です。』と、イギリスにおけるオープンスペース・トラスト(OpenSpace Trust)のプロジェクトリーダーであるアーサー・ウィンフィールドは言います。このグループは、アバディーン中央の歴史的な聖ニコラウス教区にある東教区聖域をコミュニティをベースにした再開発の一部としてチャペルを復元しています。

ウィンフィールド氏はLive Scienceに、教区(kirk、スコットランド南東部の低地地方では『church』)にある2つの場所は、アバディーンの魔女狩りで捕らえられた魔女の牢獄としての機能を備えていたと語りました。それは石のアーチ天井を持つ聖マリアチャペルと、教区の高い尖塔で、これは当時街で最も高い建造物でした。 [スコットランドの『魔女牢獄』の写真はこちら]

どちらの場所も1597年の冬には暖かくされておらず、魔術の告発をされた人々は判決や、おそらくは処刑を待っていただろう、とウィンフィールド氏は語りました。『近年の冬の聖マリアチャペルは気温が3℃まで下がるため、私は尖塔さえ震え上がるほど寒かっただろうと思います。』

16世紀のスコットランドにおける魔女狩りは熊手を持った民衆によって行われたのではなく、王立委員会によって王の命令で行なわれました。その結果今日のアバディーン公文書館は、告発された魔女を聖ニコラウス教区に監禁するための鉄のリングや枷のための地元の鍛冶屋への支払いを含む1597年における魔女裁判と処刑についての詳細なオリジナルの記録を保存しています。

また、有罪になった魔女を後に杭で火あぶりにするために使ったロープ・木材・タールなどのコストの詳細も街は記録しています。火あぶりはアバディーンのキャッスル・ヒルとヘッディング・ヒルにて、大観衆の前でおこなわれました。エディンバラ大学のスコットランド魔術に関するオンライン調査によると、わずかな慈悲として、死刑囚の大部分は身体が燃やされる前に窒息死させられました。

 

大魔女狩り
アバディーン大学の歴史学者クリス・クロリーはLive Scienceに対して、1597年のアバディーン大魔女狩りは、スコットランド王ジェームズ6世(1603年にはイングランド王ジェームズ1世となった)( https://ja.wikipedia.org/wiki/ジェームズ1世_(イングランド王) )の魔術法案がきっかけとなってスコットランド各地で起きた迫害の波の一段階だったと語りました。

『多くの場合、アバディーンは他のどの場所よりも魔女を燃やしたと言われます。すべてが正確ではありませんが、絶対に言えることはアバディーンがスコットランドにおける火刑の最良の都市記録を持っていて、そのように見えると言うことです。』とクロリー氏はLive Scienceに語りました。

彼は魔術迫害の波が15世紀のヨーロッパで始まって、1590年代にスコットランドに至り、 17世紀のアメリカ大陸へと継続して、1692年と1693年に行なわれた悪名高いセイラムの魔女裁判を導いたと言います。 [黒魔術:悪名高い6つの魔女裁判(英語)]

当時のプロテスタントとカトリックの権威の多くは、魔術は魔女が『悪魔と交信したこと』の結果であり聖書の言葉は彼らの処刑を正当化するという信念で結ばれていました。『このようにしてこの波はプロテスタントとカトリックの国々へ急速に広がりました。』とクロリー氏は言います。

アバディーンにおける1597年の魔女裁判で最も有名なケースの一つは、ある家族の2人が関わるものです。母親のジェーン・ウィシャートは、隣人に病気をもたらす呪文を唱えたこと、口喧嘩の後に義理の息子を攻撃するよう不思議な茶色い犬を誘導したこと、魔法のための材料を得ようと絞首台に吊るされた死体をバラバラにしたことなど18件の魔術に関して有罪とされました。

ウィシャートの息子トーマス・レイェス(Thomas Leyis)も、深夜にアバディーンの魚市場エリアで悪魔と踊っていた魔女の集まりを率いたことで有罪とされました。母親と息子は両者とも窒息死させられて燃やされ、町の記録は充分な泥炭・タール・木材を供給するために『3ポンド13シリング4ペンス』のコストがかかったと記しています。

 

教区下の埋葬
2006年と2007年、聖ニコラウス東教区は教会からコミュニティセンターへの修復作業が行なわれる前には大規模な考古学調査の現場でした。再開発の努力はスコットランド低地地方の言葉で『マザー・チャーチ』を意味する『ミザー・カーク・プロジェクト』として知られます。

告発された魔女たちの遺体はこの場所では見つかっておらず、クロリー氏はどこか『不浄な土地』に埋められていただろうと指摘しました。しかし発掘調査は考古学者に11世紀から18世紀におけるこの町の人々の異常な生活の姿をもたらした、と彼は言います。

発掘調査の過程で、東教区の床下にあった墓場から1,000の全身骨格を含む2,000以上の遺体が掘り出された、と発掘調査当時にアバディーンの都市歴史家でプロジェクトの都市歴史家と密に働いていたクロリー氏は言います。 [ゾッとする考古学的発見(英語)]

遺体の大部分はスコットランドでの宗教改革で教会内の墓が禁止された1560年代より前に埋められたが、役に立つため18世紀まで小規模で続けられた、と彼は言います。

また発掘調査は、11世紀のものとされる初期の教会が既存の教区の下にある証拠も見つけ、さらにおそらく疫病の犠牲になった幼児の墓9つが11世紀の壁近くに円弧状に配置されているのが見つかった、とクロリー氏は言いました。

教区から見つかった遺体の考古学的検査は完了している現在、ミザー・カーク・プロジェクトは現在の床下に遺体を再埋葬するため今年の終わりにセレモニーを行うことを計画しています。

後日、聖マリアチャペルの『魔女の牢獄』だった場所は『瞑想スペース』に再開発される予定です、とオープンスペース・トラストのプロジェクト・リーダーであるアーサー・ウィンフィールドは言います。『このスペースは平和と平静の場所として保全されるでしょう。本来、チャペルが尊敬されていたように、再びなるでしょう。』と彼は言いました。

原文:Live Science

コメント (1件)

  1. こういう話を聞くと、本当に宗教が人間にあってよかったのかと思いますね。
    隣人に病気をもたらす呪文を唱えたためってありますが、昔の時代だからちゃんとした教育もあまりなかったと思いますし、たまたまその人が知らない言葉を言っただけで呪文を唱えたとか言われそうで怖いですね。
    ほかの国の人がもしその場にいたら、悪魔だとか言われて捕まえられそうな気がします。
    当時冒険しに行ってたまたまスコットランドに漂流した人とかいたら最悪でしょうね。

    話がちょっとずれますが、今までの時代は、キリスト教を信仰する国で、ほかのものを信仰しないように国の中で宗教統制していたような感じで、国の中での宗教統制が終わった今の時代は、世界規模での宗教統制が起きているかもしれないですね。
    ただ昔みたいなあからさまなやり方ではなくて、別の建前を用意したりと、人々に気づかれにくい巧妙な方法で行っているのかもしれませんね。
    あくまで想像の話ですけど。

    • たしかにキリスト教は統制していますね。イスラム教創始者マホメットをバフォメットという悪魔にしたり、民衆に信仰されていたバアル神をバアル・ゼバブ(蝿の王ベルゼバブ)という悪魔にしたり。
      でも最近では個人尊重の流れで統制が取れなくなっているのかもしれません。
      悪魔崇拝やネオナチ・異教文化再興など、宗教や信念が既存宗教を離れて細分化しているように思います。乃木坂の衣装問題などもネオナチ関連らしいですし、ローマ法王の迷言やダライ・ラマの転生制度廃止も既存宗教の統制力低下を物語っているように感じます。

      僕は魔女狩りについて、普通の人が行動したという部分が重要だと思っています。
      今の日本でも常識などを盾に普通の人が個人的魔女狩りをしているんじゃないでしょうか。
      タバコ吸う人って仕事サボりがちだよね、みたいに。
      善悪や良い悪いの基準を個人が決める時代になっていると感じます。

      宗教も方向性が間違っていなければ有用な部分があると思います。
      例えば、キリスト教は信じる者は救われるという「キリスト教徒だけが天国に行ける」という教義を持っています。その親であるユダヤ教は、Wikipediaには「選民主義」と書かれていますが、実際は「ルールを守った者が天国に行ける」という教義です。
      またキリスト教では「懺悔すれば神が罪を許す」という考え方ですが、ユダヤ教は「罪は被害者が許す」という考え方で、神に祈るのではなく迷惑をかけた相手に誠意を持って謝罪することを教えています。
      ユダヤ教は善人が報われる教えで、僕はこちらのほうが理にかなっていると思います。

      善悪やモラルが個人の考え方に依存する無宗教な現代は、世界をバラバラにしてしまうような気がします。
      善人の基準を共有するツールとしての宗教なら必要なんじゃないかなーと最近思います。

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